“白い虎” もけっこういる・・・
年を取ると、ときどき生きているのがメンドー臭くなる。
お恥ずかしながら、それは誰あろうこのわしだ。(先刻お察しだろうけど・・・)
そんなわしには、眩しくて面と向き合えないようなエライ老人も、世の中にはいる。
そういう老人には、励まされたり勇気づけられたりしないこともないが、自身をふり返えさせられて、却って落ち込む場合も多い。
少し前の(いやもうだいぶ前になるか)このブログに、美智子皇后(当時)をじかに見たい・・・と熱望する男の話を書いたことがある。
皇后にじかに会う、なんてことが自分ら一般庶民にできるわけがない。
・・・とふつうは思うが、できる方法が一つだけある。
それは皇居で年始に行われる「歌会始(うたかいはじめ→振り仮名)」に選ばれることである。
念ずれば通ず、かどうか知らないが、たまたまそのことを知ったその男は、一念発起して、75歳を過ぎた身でありながら短歌を習いはじめたという。そして、91歳の現在も詠歌の応募を続けている、というのである。
(・・・その話『見上げた生き方をする91歳』はこちら。できたらざっと目を通してみて)
わしはこの話を紹介したとき、実をいうと腹の中では、「世の中は広いから、ま、こういう奇特な御仁も中にはいるだろうけれど、それは突然変異でこの世ひょっこりに出てきた「白い虎」みたいなもんだ。そこらにゴロゴロ転がってるわけじゃない・・・と思って、それほど落ち込まなかった。
ところが・・・である。そこらにいたのだ。そのレッキとした “白い虎” が・・・。
そのことを忘れていたのだが、なぜか急に思い出したので書いてみる、
前に扱った “見上げた老人” の投稿が載った同じ新聞の同じ投稿欄に、次ような投稿が掲載されたのである。こちらも男性の高齢者で、わしより1歳上だった。記事の切り抜きを取っておいたので、次に書き移してみる。その投稿にはこう書いてあった。
「世間は広いようで狭いというのか、狭いようで広いというのか。同じような夢をもった人が世の中にはいるものだ、と驚くやら嬉しいやら。2月11日付のこの欄で、『歌会始への夢』を読み、本当に心強く感じた次第です。
実をいうと私も恥ずかしながら、30年ほど前から歌会始に少なからぬ関心をもち、そこに参加できたらとあらぬ夢を抱いて我流で歌を詠み、できた時には投稿してきました。」(2024.03.24 朝日新聞)
いやあこれを読んだときは当方もほんとに驚いたねぇ。近くにもう1匹 “白い虎” がいたなんて・・・。
なぜならこのことの背後には、表には出ないがかなりの数の同様のホワイト・タイガーがいる、ということではないか。
そしてこの事実は、あることをわしに突きつけている。
お前は、自分のダメさ加減を直視することを避けようとして、「突然変異」の何のかのと勝手な理屈を持ち出して自分を誤魔化している・・・ということを。
もっとも、こんんことは少し考えればすぐ分かることだった。
人間は誰でも、自分に都合の悪いことはいろんな理由をつけて、見て見ぬ振りをする。早く言やあおのれを誤魔化す。それは選良である政治家たちが日々やっていることを見ればすぐ分かることだ。
・・・とまた、「人間は誰でも」とか「選良である政治家だって・・・」とかを持ち出し、目先を変えて自分の問題から逃げようとしているかも・・・。
まったく人間って(・・・ってわしのことだけど)どうしようもないワナ。
当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。
私の友人にも20年前から短歌の世界に入り、今では新聞やテレビの歌壇に毎月の様に入選されておられます。そのうち皇居の歌会始に参加されるかもしれません。私も短歌に誘われましたが、エエカゲンで中途半端な性格の私は勉強と努力を重ねるのが嫌になり、盗作まがいの狂歌などでお茶を濁していましたが、それも途中で投げ出してしまいました。私はホワイト・タイガーにはなれなかったのです。
そんなヘタレ爺ですが五木寛之氏のエッセイを思い出し、五木氏にしてしかり、私如きのヘタレは当然、と己を誤魔化して生きております。
「世の中にはいろんなタイプの人間がいる。走るのが速いやつもいれば、おそいやつもいる。歌がうまいやつもいれば、下手(へた)なのもいる。それと同じように、努力が好きなタイプもいれば、自分のように努力が苦手(にがて)で意志が弱いタイプもいるんだ。
五木寛之氏に限らず高名な人物などにこういういことを言われると、
確かに何となくホッとしますよね。
私はいま本格的な風を引いていてひどくエネルギーが落ちていますので、
もう安心しきって何もかも放り出し、温かい布団のなかにもぐりこんでしまいます。