生きるとはこういうことだと思う(2)
ターキーが「ステッキと杖は同じじゃない」と言ったそうだ。
・・・と書くと、これを読んだ人のまあ80%は、ターキーをタッキーと読み間違えたんじゃないかな。
念のために若い人のために書き添えておくと、ここで言ってるターキーとは「トルコ」のことでも「七面鳥」でもない。「水の江瀧子」のこと。
水の江瀧子は、「男装の麗人」の異名をとった昭和の大スターである。
前半生はSKD(松竹歌劇団)の踊り子・女優として活躍し、後半生は日活の映画プロデューサーとして、石原裕次郎や浅丘ルリ子をはじめとする多くの俳優や、中平康、蔵原惟繕といった監督を発掘して育てた。本名は三浦ウメ子。例のロス疑惑の三浦和義は、彼女の隠し子ではないかとも言われている。
一方タッキーは、言わずと知れたジャニーズ系の現役俳優・タレントの「滝沢秀明」のこと。
・・・なんてことを長々と書いてしまったけど、べつに昭和と平成の芸能人の比較話をしようというのではない。
実はそんな華やかな世界とは正反対の、老人の話。
わしの話はいつもこういう冴えない話になって申し訳ないが、なにしろわし自身が老人なのでね。カンベンしてね。
さて、先ほどのターキーが言ったという「ステッキと杖は同じではない」という話だけど、そのあとにこう続く。
「ステッキは踊りの相棒になるけど、杖はしがみつかれるだけだ」
なるほど、さすが名プロデューサーと言われただけあって、うまいこと言う。
たしかに「ステッキ」というと、タキシードにシルクハットの宝塚の男役とか、フレッド・アステア、ジーン・ケリーといった往年の米映画のダンサーたちが、くるくると華やかに振り回している姿が思い浮かぶ。
一方「杖」というと、腰の曲がったじぃさんばぁさんがしがみついている姿しか目に浮かばない。
話は変わるが、今年99歳になる女房の母親は、杖が大嫌いだ。
この義母のことは、2017.10.27 の記事『100歳老母の判定勝ち』で詳しく書いているが、100歳近くになってもキゼンとして独りで生きている。必要がないかぎり、世話にきた娘さえ追い払う。早く家へ帰って自分の亭主の面倒を見てやれと。(『100歳老母の・・・・』はこちらから)
そういう気合の入った老女だからだろう、つい数年前まで杖を使わなかった。
1キロほど離れたスーパーまで食料の買いだしに出ることもあるので、外出するときは杖を持ったほうがいいと勧めるのだが、
「あんなモノは持ちたくない!」
と言って持とうとしない。
はっきりとは言わないけれど、「あんなモノ」の「モノ」の中には、「(あんな)老人くさいもの」という意味がこめられているのは明らかだ。ターキーふうに言えば、まさに「杖にしがみついて歩く老人」の姿を、人の目にさらしたくないという気概だろう。
その気概はリッパだと思う。わしなど、どこほじくってもそんなものは出てこない。
だが、人生は冷酷である。95歳を過ぎて、気概だけでは生きられない現実を突きつけられた。
外出時にたおれて脚を骨折→入院→リハビリという事故を、一度ならずくり返したのである。
義母はついに杖を手にした。
彼女の心中は察するに余りある。
あんなににも激しく嫌悪していたものを、あえて手にする。
前回の記事『これが生きるということだ(1)』の中でわしは、「自分にとってほんとうに大切なことは、どんなに不都合な状況のなかでも踏んばって手離さない」という永六輔の生き方に感動し、「これが生きるということだ」と思ったと書いた。(『これが生きるということだ(1)』はこちらから)
だがもう一方で、「どんなに激しく嫌悪するものでも、我慢して受け入れなければ生きられない」という現実も厳然としてある。
それをあえて受容することも、もうひとつの「これが生きるということ」ではないかと思う。
そういうことが分かってくると、杖でもステッキでもどっちでもいい。