どっちが忘れたか -絶対戦争-
年寄りの夫婦ゲンカには、若い夫婦のケンカにはない困った問題がある。
先日、テレビのグルメ探訪番組が、老舗どじょう屋を取材していた。
「この店のどじょう、気取った店がまえのわりには、平凡な味だったよねえ」
わしは隣にいる女房に言った。とくべつの意味はなく、ただ画面を見て思い出したことを口にしただけである。
すると女房はちょっと強い口調で返した。
「わたし、このお店、行ったことないわよ」
「なに言ってんだよ。行ったじゃないか、何年かまえ。向島百花園・・・だったかな、行った帰りに」
「行ってない。・・・あなた、わたしじゃなく、誰かさんといっしょに行ったんじゃないの?」
「きみは忘れてるんだ。忘れてることを忘れて、よけいな言いがかりをつけないでくれよ」
「忘れてるのはあなたのほう。絶対、誰かさんといっしょに行ったのを忘れてるのよ」
こうなったらもう泥沼に足を突っ込んだも同じだ。足が抜けなくなり、少しずつ深みにはまりこんでいく。ヘタすると全身泥まみれになりかねない。となるとタイヘン、泥を洗うのに時間がかかる。
年をとると、こういうケンカがだんだん増えてくる。
しかしまあ、物忘れは年寄りのお家芸みたいなもんだから、若いときのようにいちいち角を立てないで、適当に流していけばいいとお互いに思っているのだが、そうもいかない場合もある。
たとえば、わしが街へ出る用事があったとき、女房から1万円渡されて、5千円の買い物を頼まれたとする。
それから1週間ほど経ってから、突然、言われる。
「このあいだ頼んだ買い物のお釣り、まだ返してもらってないんだけど・・・」
「えッ、買ってきた品物といっしょに、お釣りも渡したよ」
わしの頭のなかにあるのは、そういう記憶だ。
ところが女房の頭のなかには、お釣りを渡された記憶がないのだ。
女房はいちおう家計簿をつけている。毎日その日の出納を記帳するのを日課としている。
しかし、何らかの理由でそれができず、何日かまとめてやることもちょくちょくある。1週間も空くことはめったにないが、やむをえない事情でそういうことになったら、このような問題が起きる。
こうした状況は、じつは考える以上に深刻な問題を含んでいる。
人間はある行為をする場合、必要に応じて無意識のうちに関連する過去の記憶を呼び出して、それを参照して現在の言動を行う。したがって記憶庫の中身がちがえば、現在の言動もちがってくる。
問題をより深刻にするのは、当人にとっては記憶庫の中身が全てであることだ。
加齢による記憶障碍のせいであれ何であれ、その一部あるいは全部が消滅しても、そのときの記憶庫の中身が彼(彼女)にとって現実のすべてであるのだ。
だから、その中身が相手と違えば、間違っているのは “絶対に相手のほう” となる。
彼(彼女)にとっては、自分の記憶庫こそがこの世の現実でありすべてなのだから、そうならざるをえないのだ。
少しまえに『脳が壊れた』(鈴木大介著/新潮新書)という本を読んだ。筆者は気鋭のルポルタージュ作家で、40代半ばで脳梗塞におそわれ、右脳に後遺症をかかえた。
周知のように右脳をやられると左半身に障害がでる。
そのため彼はリハビリ病院で、しょっちゅう女用トイレに入ってエロ患者とまちがわれた。
たまたまその病院のトイレの入り口は男女が右左に並んでいて、彼の壊れた右脳は、左側にある「女用」の表示を認識できなかったのである。
このエピソードが示しているように、今げんざいの脳が認識するものだけが、その人の現実なのである。
加齢による物忘れも、脳の認識の一部を失うことだ。あるいは他の記憶と混同することによって、認識に変更を加える。
その結果として、いま残っている記憶=認識がその人の全世界となり、”絶対” となる。
冒頭に紹介したわしらの “どじょう戦争”(どじょう屋に行ったか行かなかったかのケンカ)も、コトは小さいが構造は同じなので、永遠に平行線をたどらざるをえない。なぜなら “絶対”と”絶対” の衝突だからだ。
とすれば、どうすればこの永遠の平行線に橋をかけることができるか。
どっちかが死ぬまで平行線のまま・・・というのは夫婦としてはつらい。
答えは一つであるとわしは思う。
どじょうのようにくねくねぬるぬると適当に身を処す知恵を双方が持つことだ。
老人は若いひとより長く生きてきたのだから、せめてそれくらいの知恵を持てなくては、長く生きた甲斐がないではないかと思う。
どじょうは泥の中に住んでいる。人間だって同じようなものだ。少々泥にまみれたってけっこう、それが人生だ・・・って達観できる境地。
わしら夫婦はまだその高みには達していない。少々泥不足。