耳と目、どっちがエライか
先日、わしら夫婦のあいだで、「耳と目はどっちがエライか?」という話になった。
耳と目はどっちがエライかって、いったい何の話?
まあまあ・・・。それをこれから話そうとしとるわけです。
このブログにはときどき登場してもらっているが、まもなく100歳になるのに独り住まいをしている女房の母親だけど、いくら人に迷惑をかけたくないと頑張っていても、時とともに身体の各組織のおとろえが進むのは避けがたい。
なかでも生活に大きく影響するのは、なんといってもやはり「耳と目」である。
義母も93,4歳ごろから、この2大感覚器官のおとろえが目立つようになった。
耳は、「エッ? エッ?」と聞き返すことが多くなったし、目は、「テレビの画面がボケてる」とこぼすことが増えた。だからって、
「ボケてるのはテレビじゃない、お母さんの目のほう」
なんてヤバンなことは言わんよ、わしは。
「あんたの目は、ふし穴?」
って切り返されかねないし。
さて、耳と目とどっちがエライか論争だけど、わしは単純に考えた。
「そりゃやっぱり目だと思うよ。人間に入る情報の80%は視覚情報だって、どっかで読んだことがある」
するとカミさんが反論した。
「たしかに一般的にはそうかもしれないけど、母のように実際に目や耳が衰えてきたときに、生きるのに困るのはどちらだと思う?」
「・・・・」
「現実の生活視点から言えば、違う答えも出てくると思う」
「いや、やっぱり目じゃないの?」とわし。「たとえば、お母さんが掃除をする場面を考えてみてよ。必要なのは聴覚情報より圧倒的に視覚情報だと思わないか。どの部分が汚れているか、どこにほこりが溜まっているか、といった目から入る情報によって、どこに雑巾を使うか、どこへ掃除機をかけるか・・・を決めるんじゃないの? 汚れやほこりは、自分からは何も言わないからね。体くねらせて、ねぇねぇちょっとォ、何とかしてぇ・・・なんてさ」
「ふざけないで! わたしの言っているのはそういう表面的なことじゃないの」
「表面的で悪かったね。・・・じゃ、深層のふか~い話を聞かせてもらおうじゃないの」
「茶化さないでちゃんと聞いてよ」
女房はけっこうまじめな顔で次のような話をした。
実の母親だから当然だけど、義母と接する機会はむろんわしより女房のほうがはるかに多い。その女房が最近気づいたことがあるという。義母は耳が遠くなってから、話をいいかげんに聞くようになったというのだ。
「なんども聞き返すのはしんどいし、相手だって嫌がってるのが分かるから、特に重要なことでもない限り、理解しようとする気持ちを途中で放棄しちゃうのね。分かったような顔をしてやり過ごすようになったの」
義母は気が強いからかえってそうなる・・・というのは分かる。
・・・となると頭を使わなくなる。ものごと考える機会がへる。
その方がめんどうでなくていいワ、といってよろこんでもいられない。
女房の話によると、それだけじゃない。
人と会うことを嫌がるようになった。耳が聞こえたころは、あんなに人好きで話好きだった義母が、最近ひとと会って話をするのを避けようとするらしい。
「話をしても、話を合わせられないし、聞こえてないのに聞こえてるフリするのも、やっぱりそうとうしんどいんだと思うわ」
そりゃあたしかに冗談言ってる場合じゃない。
ついこのあいだもテレビのスペシャル番組で放送していた。
健康長寿者の比率が世界でいちばん高いのは、イタリアのサルデーニャ島にあるとある村だそうだ。その村をアメリカの医療グループが徹底的に調査した。
するとわかった。健康長寿の最大の理由は、食べものでも運動でも医療でもなく、ただ単純にひとがひとと会って話をしたり笑ったりすることである、といういことが・・・。
それを聞いて女房が言った。
「そのアメリカの医療グループの調査が本当だとすると、お母さんの未来は明るくないわね。・・・どうすればいいと思う?」
「そんなこと、わしに訊かないでよ」
「逃げないで。わたしたちだって、お母さんと五十歩百歩よ」
・・・などと、耳と目とどっちがエライか、なんて子どもの自慢ごっこみたいなことやってたら、エライ深刻な話になっちまった。
老人の話はこれだからイヤなんだよね。行きつく先がどうも明るい楽しい話にならないから。
・・・って、カミさんの言うとおり、逃げられんぞ。わしらもすぐ目の前だから。
わかってるわィ。RGはきびしいよ。
RGってナニ? 老人の現実。