うどん記念日

うどん

「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」
 言わずとしれた俵万智の有名な短歌だが、これをマネして言えば、わしにも、
「腹いっぱい食べてと貴女が言ったから4月3日はうどん記念日」
 とでも言いたい日がある。

 すでになんども書いているが、わしの食べ盛りの少年期は、敗戦直後の食いモノのない時代だった。
 いつも腹をすかせており、母親の顔さえ見れば「なにか食べるものない?」と言って、「あんた、たまには別のことを言ってみたら?」とうんざりされていた。
 とにかく食べるものがなくて、その辺に生えている雑草でも、その辺の灌木になる実でも、食あたりさえしなければなんでも口に入れた。

 そういう食料事情のなかで「うどん」はとくべつのご馳走だった。
 だいたい1ヶ月に1回くらい夕餉の食卓にのるのだが、それだけで特別の日だった。その日は朝のうちに母が「夕食はうどん」と告知した。一日じゅう子供らの機嫌がいいからだ。よけいな手間がはぶける。

 田舎だったが、わが家は農家ではなく給料取りだっので、近所の農家から小麦を買い、その小麦をうどん屋に持っていってうどんにしてもらった。
 出来合いのうどんと交換するのではなく、持っていった小麦を小麦粉に替え、それを水と塩でねって機械にかけるのである。うどん屋には手数料を払った。

 とうぜん出来あがるまで時間がかかる。大人にはこの時間はもったいない。で、子供のしごとになるのだが、わしら(わしと弟)はこの役目がイヤではなかった。ほかの家事手伝いはあらゆる手を使って逃げようとしたが、この “うどん作り” だけは積極的に引き受けた。小麦がうどんになる過程を見るのが好きだった。・・・というより、うどんを食べる時が刻一刻と近づいてくるのを目で確かめているようでうれしかった。白い長い帯のようなものがくり返し機械から出てくるのを、弟とふたり、固い木の床几に腰かけて飽きもせず眺めた。

 だが、それほどまで楽しみにしても、いざ食べる段になるとあっという間だった。食べる量が、食べたい量にくらべて圧倒的に少なかったからだ。どんぶりをかたむけて汁を一滴も残さずのどに流しこみながら、
「ああ、死ぬほどうどんが食べたい!!」
 といつも思っていた。

 神様というのはエライものだ。そんな少年の熱い思いを聞きとどけてくれたのである。つまり、わしは文字どおりうどんで死にかけた。
 それが70年ほどまえの4月3日、明日である。

 話が少しそれるが、当時わが家では、冬場の農閑期に母が自宅で和裁を教えていて、近辺の村々の娘さんたちが通ってきていた。和裁を習うことが嫁入り準備のひとつだった。
 わが家の2階南向きの8畳和室が教室で、まいにち若い娘たちでふくれ上がった。10人くらいいただろうか。その光景は子供の目にもある意味で壮観だった。

 当時は小学校低学年だったが、宿題の分からないところを訊きに行く・・・という理由をつけて、わしはときどき、その若い娘たちを満載した部屋を訪れた。部屋に入ったとたんムワーと強い匂い鼻をおおった。いま思えば “嫁入り前の若い娘の匂い” だった。わけも分からない子供のくせに、その匂いが好きだった。

 そんな中で、なぜかわしを可愛がってくれる娘さんがひとりいた。それほど豊かでない農家の娘さんだったが、わし名義の貯金通帳を作って、毎月わずかなこづかいを貯めてくれていたほどだ。
 その娘さん(R子さん)にあるとき、「○○(わしの名)ちゃんがいちばん好きなものは何?」と訊かれた。わしは即座にと答えた。「うどん」。

 それから1ヶ月ほどした桃の節句の日に、姉と弟といっしょにR子さんの家に招かれた。うどんをお腹いっぱい食べさせてくれるという。
 飛び上がってよろこんだのは言うまでもない。

 R子さんの家はワラ葺き屋根の農家だった。家の中はすすけて薄暗かった。居間のすみに、田舎ふうの素朴な雛壇が飾られていた。
 当時田舎では、年中行事は旧暦に合わせて1ヶ月遅れでする習慣があり、桃の節句は4月3日に祝った。

 もっとも桃の節供などどうでもよかった。関心はうどん。出てきたのはごくふつうの田舎ふうネギうどんだった。ただ量はいくらでも食べていいということで、当時のわしにはそれ以上のご馳走はなかった。

 で、食べた。そして、食べた。さらに、食べた。
 何かの恨みでもはらすかのように、これでもか、これでもか、と。
 いろりの上に掛けられた大きな鉄鍋が湯を沸かしており、その中で、うどんを竹製筒状のザルに入れて一杯ぶんずつ湯がく。

 何杯おかわりしたか分からない。もうこれ以上は入らない、もうムリ・・・という状態になっても、田舎の人は勧めるのがもてなしだと思って勧める。勧められるままに喉の奥へ箸で押し込むようにして食べた。
 それは、当時のわしにとってはまさに天国だった。

 だが、その帰り道が地獄となった。
 お腹がはち切れそうで、苦しくてたまらい。吐きそうだったが必死にがまんした。念願だった “腹いっぱい食べたうどん” を、土の上にばら撒くなんてとんでもない! そんなことは絶対しない! という一途な思い以外頭の中はなかった。

 しかし苦しさは徐々につのった。お腹に1ミリのスキなく詰めこんだうどん。そこへ歩くという運動が加わって、胃袋からハミ出たうどんが口の中まで上がってくる。それを呑みこむ。また上がってくる。また呑みこむ。

 そろりそろりと歩きながら、そんなことを繰り返しているうちに、それまでより多量のうどんが一度に上がってきた。せめてそこで諦めて吐き出していれば、その後の苦悶はなかった。
 ところがそれでもなお唇を食いしばって吐き出さなかった。そのため逆流してきたうどんがもういちど逆流して気管へ入った。のどが詰まって息ができなくなった。近くに人家のない田舎の一本道である。悶え苦しむ弟をみても、まだ小学生だった姉もオロオロするばかりだったらしい。

 たまたま通りかかった村人が吐き出させてくれたのだが、わしはそのときすでに顔も唇も血の気を失って、ぐったりなりかけていたらしい。村人の通りかかるのがもう少し遅かったら、まちがいなく死んでいただろう・・・とその後よく言われた。

 R子さんが招待してくれた日が桃の節句だったのは、特別の意味はなく、たまたまだったようだ。
 だがそのおかげで私のなかでは、「桃の節句」と「うどん」が分かちがたく結びついてしまった。

 つまりわしにとって旧暦桃の節供の4月3日は “うどん記念日” なのである。

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