空き家の鯉のぼり

空き家

 毎日やっているウォー・ジョグ(「ウォーキング&ジョギング」のわし流略称)の道筋に、ちょっと気になる家がある。
 空き家である。

人が住んでいたときは、どこにでもあるごくふつうの家だった。だからまるで気にもしなかった。
 しかし1年ほどまえから住む人がいなくなった。以来、外から見るだけでも急速に印象が変わった。廃屋というほどではないのだが、みるみるしおれ荒んでいくのが分かった。まるで老いてから妻を亡くした男のようにに。

 あまり大きくない前庭には、かつては花々を咲かせていた植木鉢やプランターが、枯れ朽ちた茎とともに土にまみれて放置されたままになっている。壊れて中の土がこぼれ出ているものもある。一事が万事、他の部分もすべてそんな感じ。

 造りは2階屋で、2階の道路に面した側にベランダがある。
 ベランダには金属製の手すりが巡らされているが、実はそこにちょっと気になるものがあるのだ。
 「鯉のぼり」である。
 手すりの左端に、2㍍くらいのポールがビニール紐で結わえつけてあり、軒先から斜めに突き出ている。そのポールの先から、小型の鯉のぼりが1尾(正確には「1旒」)垂れ下がっているのである。

 最初のうちは、そんな所に鯉のぼりがいるなんて気がつかなかった。
 ところがあるときその家の前を通っていて、何とはなく上方から視線のようなものを感じて顔をあげ、発見した。

 真鯉(黒の鯉)なのだが、日差しや雨風に晒されて白っぽくなり、汚れている。
 ・・・ということもあってか、みるからにしょぼくれている。イメージにある鯉のぼりのように元気がない。
 もちろん風のある日には身を動かしているのだが、まるで老人が家族に言われてしぶしぶベランダに出て体操しているような感じだ。時にはポールに体を巻き付けてサボッているときもある。

 最近はあまり見かけなくなったが、かつて、飼い主に捨てられた犬が住宅地をうろついているのをときどき目にした。尻尾を垂れ、頭も下げて、それでいて近くをとおる通行人を上目づかいに窺う。目が合うとあとについてくる。人間に飼われた犬は、飼い主に捨てられるとこんなにも自信も誇りもを失うものなのか、と哀れを通りこして暗然とした気持ちになったのものだった。

 上記の空き家のまえを通るとき、つい顔を上げて色あせた鯉のぼりを見てしまうのは、飼い主に捨てられた犬をつい連想するからだった。最初のうちは・・・。

 おそらくこの家にはかつて、男の子のいる家族が住んでいたのであろう。その子が元気に成長することを願って、小型とはいえ鯉のぼりをベランダに立てたのであろう。

 だが、何かの理由で突然この家を出なければならなくなった。何があったのかはもちろん知るべくもないが、あまり幸せな理由ではないような気がする。取り残されて風雨に晒されている鯉のぼりは、その不幸の象徴のように見える。

 ひょっとすると・・・とわしの頭のなかには、どうしてもある想像が浮かんでしまう。
 鯉のぼりを立てて成長を待望された当の男の子自身が、とつぜん何かの理由で、病気か事故か(いじめによる自殺もふくめて)で突然この世から姿を消してしまった・・・のではないだろうかと。
 親たち家族は、ふいに魔に攫われたかのようなわが子の喪失に、とても耐えられなかった。彼の思い出がそこかしこに染みついているこの家に、住み続けるに忍びなかった。
 だから彼らはこの家を捨てた。

 だがそうして捨てた家に、彼らはなぜ、鯉のぼりをわざわざ残したのだろう。処分しないでそのままにして去ったのだろう。単に忘れ残したようには見えない。そういう気がしてならない。

 そこへ思いが向くと、鯉のぼりを残して去った親の気持ちがさまざまに想像される。まるで関係のない他人のわしにまで、親の思いがまざまざと感じられて胸を締めつけられる気になる。

 人は誰でも、人生の途上でさまざまな事柄に出会う。
 ふつう嬉しいことは少なく、辛いことが多い。
 だがおそらく、わが子を喪うことほど辛いできごとはないだろう。

 それを思うからこそわしも、自分には縁もゆかりもない空き家のまえを通るたびに、われ知らず足の運びがにぶるのであろう。

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