玉が消えた日(2)

 前回は、「脱腸」でわが「金の玉」が股間にヒョータンのようにどろ~んとぶら下がって慌てるまでのいきさつを書いた。
 今回のを読むまえに、前回にちょこっと目をに通しておいてね。でないとこれから書くことが何のことやらよう分からんから・・・。(前回はこちらから)

 さて、この病気(鼠径ヘルニア)は、最初は痛みはないけれど、あるレベルを超えると激痛を伴うようになる。だけでなく、元に戻すのが困難になる「怖い病気」なのだそうだ。
 親はどこからかそのことを聞いてきたか知らんが、症状を大げさに誇張して、脅し同然のことばを口にしながらわしを説得にかかった。
「このまま放っておくと、どんどん大きくなるよ。そのうち地面を引きずりながら歩かなきゃならなくなるかもしれない。お前はそれでもいいのか? 自分のオチンチンで道の掃除したいのか?」
「・・・」
「手遅れになると、もう元には戻らないらしいよ。お前は一生、そんなものをぶら下げたままでいいのか。だれもお嫁さんに来てくれないぞ!」
 子供ながらも、さすがにコトの重大さは伝わったよ。
 お嫁さんの来手がなくなるというのも困るが、一生道路の掃除係をやるのか・・・というのは子供心にもこたえたね。

 メスで「玉」を切り裂かれる怖ろしさや痛みは、一時の辛抱だということも理解した。それで生涯の “嫁なし掃除係” から解放されるのならば・・・と一大決心をして、ようやく病院へ行くことを承知したのである。

 のちに親から聞いた話では、病院でもやはり医師から、治療は手術しかないといって、次のような説明をされたそうである。
 まず鼠蹊部を切り開いて、無断外出している腸を体内へ押しもどす。それから周辺の組織を引っぱってきて縫い合わせ、ふたたび腸が外部に出ないように、トンネル(鼠蹊管)部分にフタをする。ただし、自分の組織同士をムリに引っぱってきて縫い合わせるため、ある期間痛みが生じるのは避けられない・・・。

 それを聞いた当時のわしが、その医師の説明を理解したとは思えないが、やはり理性的把握を超えた動物的本能で、これからわが身に降りかかる艱難辛苦をリアルに感じ取ったのであろう。

 その証拠に、今でもよく憶えているが、一週間後と決められた手術日がくるまでの張りつめた緊張感といったらなかった。いっときも休まず走りまわるのが子供の仕事だが、その間は老人のように部屋の隅でひっそりと膝を抱えたままだったらしい。

 何もしないのに、一日中じわじわと脂汗がにじんでくるようでありながら、それでいて全身の皮膚が乾いてヒリヒリするような感覚・・・それは今でも体のどこかに残っている。「生き地獄」という言葉があるけれど、子供の感覚では、まさにその生き地獄そのものの中にいたように思う。

 さて、いよいよ手術があすという日の夜になった。
 わしは絶望的な恐怖につつまれながら、蒲団の中で悶々とし、輾転反側した。あげく手をあわせて、あすの朝起きたら死んでいますように・・・と真剣に祈った。

 しかしそんな恐怖の中でも、子供というのは眠れるんだよね。目を覚ましたら朝だった。世の中は明るくなっており、もちろんわしは生きていた。

 しかしその一夜のうちに、信じられないコトが起きていたのである。それは通念や常識の理解を超えた現象だった。

 わしの「金の玉」が・・・あの両脚の間にどろ~んと間のびした顔でぶら下っていた例の「ひょうたん玉」が、朝起きたときにはあとかたもなく消えていたのだ。なくなっていたのである。
 そこにあるのは、他の同年齢の少年たちにあるモノと同じ、こじんまりとちぢこまった、ふつうの、かわいげな(?)玉だったのだ。

 子供のわしは、単純に痛い手術をしないですんだことを喜んだだけだったように記憶するが、両親や周辺のおとなたちは、相当に驚いたらしい。
「この世にはこんなことが起きるのか!!」と。
 まさに魔法か、神の手が使われたかのようだったと、のちに語っていたのをわしも覚えている。
 
 あれから半世紀以上が過ぎた。科学も文明も長足の進歩をとげている。しかし未だに、あのとき自分の身に起きた現象を説明する方法をわしは知らない。
 思い浮かぶ言葉はただひとつ、「奇跡」。
 いや、ことばの正しい意味では、「珍(チン)事」、というべきかもしれない。

 もちろんその日、わしは病院には行かなかった。
 おそらく親が電話したにちがいないが、いったいどのように説明したのだろう。またそれを聞いた医師は、どのような言葉を返したのだろう・・・などと今ごろになって興味をそそられる。

 余談になるが、この「事件」以後、わしは家族から「シンケイ」というあだ名をつけられた。物事に過敏にもしくは過剰に反応する神経質体質だ、というわけだ。
 で、以降は、跳び箱をとびそこねて骨にひびが入って痛いと訴えてもも、食べ物に当たって気分が悪くなっても、「シンケイ、シンケイ」と言われてまともに扱ってはもらえなかった。

 ・・・というわけで、以上がわしが子供のころ体験したフシギな「金の玉」事件である。

 それにしても、当時のわしは5,6歳の少年だった。現在のわしは髪も髭も白くなった老爺である。
 当記事を書くことは、まさに「玉手箱」を開けるにも似た作業だった。
 今わしは、ゆらゆらと立ち昇る白い煙をボー然かつ呆ーケタように眺めている。
        
 ※序だから次回は、「玉シリーズ」第2弾として『爆発した玉』をアップいたします。

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