初めて洗濯機がきた日

電気洗濯機

 わしの81年余の人生に起きた出来事としては、これはおそらくトップ10に入るだろうと思う。

 前回、半日がかりで洗濯する母親の姿を思い出して記事にしたら、ひもで繋がっていたように、もうひとつ洗濯がらみの記憶が出てきた。

 それはわしが高校生のころのことだ。今の高校生だったら、トップ10どころか、トップ100、いやトップ1000にも入らない “事件” かもしれない。

 前回の記事に書いた頃からさらに十数年時代が下がる。もはや戦後ではないと言われた頃である。
 世の中に電気洗濯機なるものが現われて、人々を驚かせた。

 それまでは、衣服を洗うのは人間の手で・・・というのが、めしを食うときは箸で・・・というのと同じくらい当たり前だった。
 つまり、衣服の洗濯を機械にやらせるなどという発想は、今なら自分の睡眠をロボットにやらせよう、と考えるのと同じくらい現実ばなれしたものだった。とりわけわしが生まれたような山の中の田舎では・・・・。

〔調べてみると、日本で洗濯機の第1号機が誕生したのは昭和5(1930)年だったらしい。だが、目の玉が・・・いやキン玉もいっしょに飛び出してきそうなくらい値段が高かったので、ゼンゼン売れなかった。つまりまったく普及しなかった。〕

 ともあれそんな時代に、村ではまだどこも入れていない電気洗濯機を、先頭を切ってわが家が入れたのである。

 もちろんそれは一家にとって大事件だったが、村にもひと騒動引き起こした。
 たちまち村中にうわさが広まり、近所の人にとどまらず、ずいぶん遠くの人たちまで毎日のように見物にやって来たのだ。まるで従順でやさしく力持ちの熊がわが家にやってきたみたいに。

 わしの家が、村一番の大金持ちだったわけではない。いやむしろ反対で、中よりやや下ぐらい、どっちかというとむしろ貧乏のほうだった。
 じつはわが家は、戦前のある時期まではかなりの金があったらしい。一家に働き手が3人いたからだ。だが、そのうち1人(祖母)が老齢になって仕事をやめ、さらに終戦を機に母も仕事から退いた。

 3-2=1で働き手は1人になった。当時はそれがどこでもふつうだったのだが、わが家は育ちざかりの子供が5人いて、残ったひとりの(父親)のスネをガリガリかじりまくったのである。
 今は違うらしいが当時教師の給料は安かったので、もともと少ない肉を食べざかりの子供が寄ってたかって食いちぎったらどうなるか、というきわめて単純な絵柄である。

 そんなビンボーな家なのに、なぜ父親は、うちよりはるかな金持ちも手を出していない最先端の “洗濯する機械” などを買い入れたのか。

 当時から、そのことが何とはなくわしの頭の隅に引っかかていた。
 だが、こと改めてそれを親に聞くのはどことなく憚られる感じがあって、先送りしているうちに忘れてしまった。

 で、冒頭で書いたように、当ブログの前回の記事で母親の洗濯話を書いたのがきっかけになって、つながっていた糸にひっぱられたみたいに、冷えた灰の中から出てきたのである。
 そこで遅ればせながら(それもソートーの…)、改めてこの疑問を考えてみることにした。ヒマだからね。

 たしかに当時、家計はかなり苦しかったはずだ。
 トシゴロまっ盛りだった姉を嫁にやらねばならなかったし、その後につづくナマイキまっ盛りのわしと弟を、大学にやらねばならなかった。

 わしら兄弟が勉学好きの秀才で、学問を熱望したわけではない(実際はその反対、遊び好きの凡才で、ラクして金を手に入れることを熱望していた)。
 じつはその頃、ちょっとした家では子供を大学へ上げるのが一種のステータスだった。”もはや戦後ではなくなった” 日本では、そういうバカな風潮が見え始めていたのである。
「これからの男の子は大学くらい出てなければ・・・」
 などと親は言っていたが、ほんとうは、自分らがともに教育者でありながら(そのころ母親は退職していたけれど)、息子を大学へやれないのは世間体が悪い・・・といったオロカな意識がどこかにあったのではないかと思う。

 さて、そういう経済的に苦しい状況にありながら、不要不急と思われる電気洗濯機を他家に先立ってわが家に入れたのはなぜか、という疑問である。

 前回の記事を読んでいなければ状況をよく理解してもらえないかもしれないけれど(前回の記事「蝶が飛んできた日」はこちらから)、当時、母親の家事労働はそうとうにきついものだったと思う。戦後の混乱期は通りすぎていたものの、そろって反抗期周辺をうろついている5人の子供らの養育と、その頃は90歳近くになって急速に衰えてきていた祖母の世話などで・・・。

 そんな中で一家8人が出す衣類の洗濯は、母親にとってかなり大きな負担だったはずだ。

 そういう状況を見ていた父が、一度はトン挫したものの改良されてその頃ようやく本格的普及のきざしを見せはじめていた “電気で洗う機械” に、心を動かされたということは大いに考えられる。
 田舎では洗濯する熊みたいに珍しいシロモノでも、都会の裕福な家庭では実用の道具としてに使われ始めているという記事が、そのころ新聞や雑誌に取り上げられはじめていたからだ。

 もうひとつ考えられるのは、父親が入り婿だったということがあると思う。
 前回の記事に書いたように、わしの母は、祖母に育てられたものの血はつながっていなかった。父親(祖母の夫)が早く亡くなったあと、家の実権は長く祖母がにぎっていた。

 2018年6月8日のブログ(「わしのおばあちゃんは西郷隆盛が生きてる頃に生まれた」)に書いたが、彼女は伊賀上野を統治する伊勢津藩の高級藩士の娘で、自他共に認めるしっかり者だった。結婚後に独学して助産師の資格をとり、自分の手で稼いだ収入もかなり大きかったようだ。

 今にして思うと、わたしの母が、当時ではめずらしく結婚後も仕事を手放さなかったのは、教育への情熱からというより、四六時中祖母といっしょに家にいることを避けたかったからではないか、という気がする。

 そういう家庭事情のなかで、母がさまざまにつらい思いをする場面に直面しても、もともと自我があまり強くない上に入り婿であるという立場から、父は妻(私の母)をあまりかばってやれなかった・・・のではないかと想像する。

 しかし時経て祖母は年をとり気力をうしなった。収入もなくなって、家の実権は唯一の働き手である父に移った。

 ようやく自分の主張が通るようになった父がまず考えたのは、年齢的にも50歳をすぎて老いてきた妻(わしの母)を楽にしてやることだった。そのための具体的な手だての一つが、洗濯労働から解放してやることだったのではないかとわしは想像する。それが、隣人が陰口をきくほどわが家の経済に不釣り合いに高価な買い物であったとしても・・・。

 それにしても、一家が食べるだけでギリギリだったはずの家計のどこに、そんな予定外の、それも多額な支出をまかなう余裕があったのか。

 余裕などあるはずはなかった。わしはそのころ、どうやって家計をやりくりするかを、ひそひそ話し合っている両親の声を耳にしたとこが一度ならずあった。

 いまこの年になってみれば推察できることがひとつある。
 父親はそのころ、定年まであと数年を残すだけだった。あと数年すれば確実に退職金が手にはいる。
 その退職金を担保にして、どこからか金を借りたのではないか。

 借金すれば当然利子を払わなければならない。定年まであと少し我慢して待つという手もあったはずだ。だがたとえ利子を払ってでも、少しでも早く母を楽にしてやりたい・・・という気持ちが父には強くあったのではないかと思う。

 ・・・そんなふうに想像をめぐらしていると、父の人間像や人生の一面が見えてくる気がする。
 すでにどこかの記事で書いたかもしれないが、父は幼児のころに両親を喪い、親戚の家をたらい回しされて育った。教師になったのも当時師範学校は公費で学べたからだ。

 そういう環境で育ったため父はすべてに遠慮がちな消極的な性格となった。家の実権者であった姑(わしの祖母)から妻(わしの母)をちゃんと守ってやれなかった自分への、忸怩とした思いは想像以上に大きかったのではないかと思う。

 2018年4月25日の記事「父の死」(→はこちらから)に書いたように、わしと父親との関係は小学校時代のある事件をきっかけにぎくしゃくしていた。父と子として深い繋がりを持てないまま父は亡くなった。

 しかしこの年になって、父親の人間性や人生をかいま見る機会があると、生きていた間にもう少し気持ちを通わせておきたかったと思う。血のつながった親子だったのだから・・・。

 ま、どこでも、父と息子というのはそういうものかもしれないけれど。
 

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