初めて洗濯機がきた日
前回、手で洗濯する母親の姿を思い出して記事にしたら、つながっていたひもが引き出したように、もうひとつ洗濯がらみの記憶がでてきた。
前回の記事からさらに十数年時代が下がる。もはや戦後ではないと言われた頃である。
世の中に電気洗濯機なるものが現われて、人々を驚かせた。
それまでは、洗濯は人間の手でやるのが当たり前だった。ご飯は箸で食べるのが当たり前、というのと同じくらいに。
ともあれそんな時代に、村ではまだどこも入れていない電気洗濯機を、わが家が先頭を切って入れたのである。
もちろんそれは一家にとって大事件だったが、村にもひと騒動引き起こした。
たちまち村中にうわさが広まり、近所の人にとどまらず、ずいぶん遠くの人たちまで見物に来た。まるで従順で力持ちの “洗濯する熊” がわが家にやってきたみたいに。
わしの家が、村一番の大金持ちだったわけではない。むしろ反対で、どっちかというとむしろ貧乏のほうだった。
当時、家計はかなり苦しかったはずだ。トシゴロまっ盛りだった姉を嫁にやらねばならなかったし、その後につづくナマイキまっ盛りのわしと弟を、大学にやらねばならなかった
そんなビンボーな家なのに、なぜ父親は、うちよりはるかに金持ちでもまだ手を出していなかった “洗濯する機械” などを買い入れたのか。
当時からそのことが、何とはなくわしの頭の隅に引っかかていた。
だが、こと改めてそれを親に聞くのはどことなく憚られる感じがあって、先送りしているうちに忘れてしまった。
ところが今回、冷えた灰の中から出てきたので、それを書いている。
ともあれ、そういう経済的に苦しい状況にありながら、不要不急と思われる電気洗濯機を他家に先立ってわが家に入れたのはなぜか、である。
前回の記事を読んでもらえば状況が分かると思うが、当時、母親の家事労働はそうとうにきついものだったと思う。
戦後の混乱期は通りすぎていたものの、そろって反抗期周辺をうろついている5人の子供らの養育と、その頃は90歳近くになって急速に衰えてきていた祖母の世話などで・・・。
そんな中で一家8人が出す衣類の洗濯は、母親にとってかなり大きな負担だったにちがいない。(前回の記事『蝶が飛んできた日』はこちらから)
父はそういう状況を見て、”電気で洗う機械” に心を動かされたということは考えられる。
田舎では洗濯する熊みたいに珍しいシロモノでも、都会の裕福な家庭では実用の道具としてに使われ始めている・・・というような記事が、そのころ新聞や雑誌に取り上げられはじめていたこともある。
もうひとつ考えられるのは、父親が幼くして孤児になり、親戚をたらい回しされて育てられたうえ、結婚は入り婿だったということが、遠因にあるような気がする。
そして結婚の相手であるわしの母親は継子だった。つまり祖母に育てられたものの血はつながっていなかった。そして家の実権は長く祖母がにぎっていた。(祖母の夫は早くに亡くなった。)
今にして思うと、母が当時ではめずらしく結婚後も長く教師の仕事を手放さなかったのは、教育への情熱からというより、四六時中祖母といっしょに家にいることを避けたかったからではないか、という気がする。
そういう家庭事情のなかで、母がさまざまにつらい思いをする場面に直面しても、先に述べたような育ちのせいか万事控えめな父は、妻(私の母)をあまりかばってやれなかったのではないかと想像する。
だが時経て祖母は年をとった。祖母の収入もなくなって、家の実権は唯一の働き手である父に移った。
ようやく自分の主張が通るようになった父がまず考えたのが、年齢的にも50歳をすぎて老いてきた妻(わしの母)を楽にしてやることだったということは大いにありうる。
そのための具体的な決断の一つが洗濯機の購入だったのではないか・・・とわしは想像する。
たとえそれが、隣人が陰口をきくほどわが家の経済に不釣り合いに高価な買い物であったとしても・・・。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。