恋の季節

猫の恋

 いまは恋の季節である。
 ・・・といってわしが年がいもなく “老いらくの恋” を告白しようとしているわけではない。そこんとこ間違わないでもらいたい。
 アホ。そんな間違いをするマヌケがどこにいるか!
 スンマセン、その通りでした。
 もっとも、81歳でも恋をするエライ人が世間にはいないわけではないけど、まあ、わしには無理デス。
 
 頭からやり直しマス。
 いまは恋の季節である。
 わしの話ではない、猫の話である。
 毎年春先になると、恋する猫の声がひんぴんと聞こえてくる。よくまあ恥も外聞もなく、あんなあからさまな声を真っ昼間から出せるものだと、毎年感心する。
 じつは今も聞こえている。高く低く、遠慮のない猫の恋歌が・・・。

 伊藤一彦という歌人にこんな歌がある。

 《恋猫の男いっぴき屋根にいて恥ずかしきまで甘き声出す》

 うまいもんだね。わしの言いたいことをたった三十一文字で言い尽くしている。
 ただ、「甘き」というところに少しわしの考えを付け加えたい。

 たしかにあの声は、強烈な「恋」のフェロモンを内包している。
 そして恋というとわれわれ人間は、どうしても「甘い」という味をそこへ付けたがる。先の歌人のように。
 だがありていにいえば、つまりミもフタもなくいえば、実体はそんな甘いもんじゃアリマセン。
 
「恋=発情」である。「恋=愛」ではない。
「発情」とは生きものが、おのれの遺伝子を世に残すために行う交尾の準備が完了した、という知らせである。調理のおわった小学校で、給食時間を知らせるチャイムみたいなものだ。

 それを人間が「甘い」と感じるのは、種の保存を全うさせようとする自然の企みがあるからである。いわば自然の戦略だ。それに軽々と乗っかってのぼせ上っているだけにすぎない、猫も人間も。
 80年余も人間やってれば分かる。

 とはいえ、万物の霊長たる人間が「恋」に落ちて、猫レベルの振る舞いに及ぶヤカラがいるのは確かで、しょっちゅう昼のワイドショーを賑わしているのを見ると、わしはちょっとあさましいと感じる。
「ああいう連中は、恋の実体が何たるかを知らんアホたちだ」
 などとテレビの前でエラそうにうそぶくことができるのは、わしが恋する資格を失ったからだ。
 はっきりいえば負け犬の遠吠え。
 わしだって資格全開のころは、人の忠言に耳をふさいでバカな暴走をしたこともないではなかった・・・。
 
 ・・・というふうに、生きものの “本能の力” というのはあなどれない。
 神が与え給うたものだからね。
 「天の企みだ、策略だ!」と理性で分かっていても、現実の押さえにはならない。「本能>理性」だからね。

 第39代アメリカ合衆国大統領ジミ―・カーター氏は、歴代大統領のなかでもひときわ真面目な人物として知られている。そのうえ敬虔なキリスト者でもある。
 そのカーター氏がある時こんな発言をして、国民を驚かせたことがあった。
「私も多くの女性を情欲の目で眺めたことがある。このことを神は知っておられ、私をお許しになっている」。
 根が真面目だから、真面目に本音を語っちまったんだろうねぇ。
 
 この発言でわしが注目するのは、「情欲の目で女性を見たことを神は知っておられ、お許しになっている」という部分だ。
 神が “知っていてお許しなる” のは当たり前の話である。だってそういうふうに神が人間を作ったのだから。
 
 猫も同様である。
 少々うるさいが、まあ我慢しよう。神の手につながっているんじゃ、どだいあらがってもムリだ。
 それに、恋の季節には期限がある。
 まもなく終わる。わしの命みたいに・・・。

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