鼻毛/退屈のしのぎ方(上)

退屈しのぎと鼻毛

「退屈対策は哲学問題である」
 と言った人がいる。誰が言ったか忘れたが。
 
 たしかに老人・・・とりわけ退職後の老人にとって、これは大問題である。
 定年によって、ドカンと目の前に置かれる膨大な時間。
 なにしろそれ以後あの世へ行くまで、目の上のタンコブのように積み上げられたままなのだから。

 この取りとめのない、そのくせバカでかいクラゲみたいな時間といかに戦うか、もしくは仲良くするか、という問題をとらえて、「人生いかに生きるべきか」を問う哲学問題と言わずして何と言おう。

 それに、退屈問題は老人に限った話ではない。
 若い人だって、退屈で死にそうになるときはある。
 だから当然といえば当然なのだが、先人のなかには、その人独自の退屈対策を編み出して実行した人がいる。
 その中から特にわしの興味を引いた夏目漱石の例を、ヒマにあかして “研究” してみることにした。
 
●【夏目漱石の哲学問題】
 漱石先生の退屈対策法はさすがに独特である。
「鼻毛を抜いて、それを順次、白紙の上に並べていく」ものだったと聞く。
 ウソかホントか知らないが、本人がそういうことを書いた雑文があるらしい。

 ともあれ大文豪の称号はダテではない。なかなか味のある趣向である。
 ・・・というにとどまらない。現代の「リサイクル型社会」を先取りする先見の明があった、というべきではないかと愚考する。
 
 すなわち、鼻毛並べの台紙として使われる白い紙は、おそらく書き損じた原稿用紙の裏だろう。これは資源のリユース(再利用)といえる。
 その上に並べる鼻毛は、同じ並べるのでも碁石・将棋の駒や遊戯カードのようにやがてゴミになることはないから、これはリデュース(ゴミの減量化)といえるだろう。並べられた鼻毛は、務めを終えれば放っておいても風に飛ばされて、やがて天然自然の元素に還る(リサイクル)。

 少し横道にそれる。ヒマのない人は飛ばしてクダサイ。
 鼻毛といえど有機体の一部である。動物のあらゆるパーツ同様、必要あって鼻穴に装備されているものだが、放っておくと過剰に成長繁茂し、外部まではみ出てくる。庭木が垣根をこえて道路にまで枝を伸ばすようなものだ。

 犬馬の類ならいざ知らず、万物の霊長たる人間はこれを嫌う。
 過ぎたるは及ばざるがごとし、ということもあるが、要するに自分の鼻穴から鼻毛が線香花火のように飛び出すのは、美意識に反するのである。たとえ土台となる自分の顔の造作が、ねずみ花火のように無方向に走り回っていてもである。

 早い話、女性の嫌いな男ランキングでは、この “鼻毛はみだし男” は常に上位にランクされる。もっとも中には、男の鼻毛は男らしくていい、と言う女もいることをわしは知っている。蓼食う虫も好き好きとはいえ、まあ特異体質の一種であろう。

 さて、鼻毛が鼻穴からはみ出てくると、一般に人間は小鋏でもって剪定し、美意識が傷つくのを防ぐ。文豪といえど人間、漱石先生もこの行為を実行されたわけだ。
 ただ先生がわれわれ凡人と違うところは、あえて鋏を使わず、自らの指先でもってこれをなされた、という点にある。
 これは退屈対策としての「鼻毛抜き法」において、押さえておかなければならない勘どころの一つである。

● 鼻毛抜き法の勘どころ
 おそらく誰でも(女性でも密かに)、人生に一度くらいは経験していると思うが、鼻毛を鋏で切らずに指先で引き抜いたことがあるのではないかと思う。
 その際、鼻粘膜に一種むず痒さを伴った痛みを生じる。時に連動して目頭に涙がにじむこともある。しかし痛くて耐えられないほどではない。というかほどよい刺激になる。いや直截に言おう。この微量の涙をともなう「痛むず痒さ」は、言葉による説明をこばむ隠微にして微妙な快感である。とりわけ時間を持て余している退屈時には・・・。

 ところで、引き抜かれた鼻毛を虫眼鏡で見れば一目瞭然だが、毛根の部分に小さな肉塊が付着している。毛根といっしょに引きちぎられた鼻粘膜の断片だ。
 わが手でわが肉塊をおのれの生体から引きちぎる。
 そこにいわば自虐的快感を覚えるというのは、多少ともM的傾向を有する人間にはありうることだろう。察するに漱石先生には、いささかその傾向がおありだったのではなかろうか。
 
 この毛根に付着する肉塊問題は、いわば、退屈対策としての「鼻毛抜き法」の生理的側面からの考察であるが、技術的側面からみると別の意味もある。

 鼻毛を抜いて白紙の上に並べる際に、毛根の肉塊が接着剤の役割を果たすのだ。
 これなくしては、せっかく精神を統一して並べた鼻毛が、わずかな鼻息でも吹き飛ばされる不都合が生じる。現実の場面では、そういうケースがままある。それを避けるために、毛根に付着してくる鼻粘膜の断片は、接着剤がわりとして有用なのである。

 ここまでに述べれば、わしがこれから話そうとするところは、すでに嗅ぎ取られた方も少なくないだろう。

 そうなのだ、大方のご賢察のとおり、抜いた鼻毛を白紙の上にただ並べるだけでなく、どのような形に並べるか、実はそこにこそ、退屈対策としての「鼻毛抜き道」の真髄がある。(いつのまにか「法」から「道」に変わったことを確認いただきたい)。
 で、その真髄を次に述べる。
 
 (今回すでに長くなったので、続きは次回へ回しマス)
                (次回はこちらから)

 

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