気に病む男
客観的に見ればどうでもいい小さなコトに、変にクヨクヨすることってないデスか?
肝っ玉の小さいわしのような人間には、時たまそれがあるんだよなあ。
たとえばこのあいだ。
久しぶりに天気がよかったので、気分転換に外へ出て、近所をブラブラしていた。
陽の光が秋の穏やかさを含んでいて、風にも夏とちがう爽やかな肌ざわりがあって、すこぶる気持ち良かった。
わしは鼻歌でも口ずさみたい気分で(口ずさまなかったけど)、何とはなく胸の前に腕を組んで歩いていた。
とある角を曲がった。
・・・と、いきなり同じマンションの住人と出くわした。まさに鼻突き合わさんばかりの距離。
向こうさんも驚いたみたいだったが、こっちも少なからず驚いた。・・・とはいえいい年をして仔猫みたいに跳び上がるわけにもいかず、平静を装ってひと言ふたこと軽口をを交わして、別れた。
去年の秋、いま住んでいるところへ越してきたとき、当地の事情がわからなくて困り、この隣人にいろいろと世話になった。親切ないい人なのである。
別れたあとで気づいた。
出会って別れるまで、わしはずっと胸の前に腕を組んだままだったことに・・・。
ついうっかりして腕組みを解かなかったのだが、相手から見ればえらくエラそうに見えたのではないか。
・・・そう考えると落ち着かなくなった。
わしは相手より年上(隣人は50代後半)だが、それだけのことで何をエラソーにふんぞり返っているのだ、この爺さんは! と隣人は思ったかもしれない。
べつに意識して腕を組んでたわけではないし、けっしてふんぞり返っていたのでもないが、相手にはそう見えたのではないか・・・と気になった。
確かにほめられた態度ではない。出会った瞬間に腕はさりげなく下ろすべきだった。そうしなかったのは相手に失礼だったかもしれない。少なくとも相手は不快の気分が多少動いたのではないかと思う。
・・・などと、そのあとしばらくクヨクヨした。
いまこうして客観的に距離をおいてみれば、こんなことでイチイチ気に病むことはない。いい年をした甲斐がないと思う。
そういえばフランスの劇作家モリエールの戯曲に『気で病む男』というのがあって、学生時代に読んだ覚えがある。内容はすっかり忘れてしまったが、なぜか題名だけはよく憶えている。主人公に自分と同じものを感じたのかもしれない。
それを思い出して、フランスにも同じような男がいるんだ、と少しほっとした気持ちになったものの、すぐまた思った。
「気で病む男」と「気に病む男」では、意味が少し違うのではないか。
意味の違うことを同列に並べて安心するというのも、なんかおかしいんじゃなの?・・・と。
・・・だから、そういうどうでもいいことで、イチイチ「気に病む」んじゃなないの!
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。