突っ込むのやめた

 理性のかけらもなく、相手とクソミソに言い合うのは、そばで見ていても気持ちの良いものではない。はるか他国でやっているのをテレビで見てもね。
 
 世界のリーダーを自認する国の、そのトップを決める大統領選挙を前にして行われたテレビ討論会には、呆れた。
 2回行われて、とくに1回目がひどかった。
 2匹の猛獣が吼え合っているのと大して違わなかった。
 
 猛獣といっても双方ともかなり年寄りだ。ま、老獣。
 だが年寄りの数少ない取り柄である思慮深さとか慎み深さは、ミジンもなかった。相手が話し中にさえぎって、あるいは話している最中にもかかわらず、大声でまくしたてる。
 それも内容のある話ではない。ただ単に相手への誹謗中傷と、罵倒。
 この国を見直したよ。こんなのが大統領候補なのかと。
 
 ・・・などとヨソの国のことだと思っていい気でヒボーしているが、人のことは言えない。
 今でこそわしらも年を取って “穏獣” のハシクレみたいになっているが、かつてはしょっちゅう派手な夫婦喧嘩をした。傍からみればまさに “猛獣の吼え合い” だったろう。
 
 もともとカミさんは、わりと突っ込みどころの多い人間だ。
 それでいて簡単に後へ引かないところもある。
 またわしも、そういうパートナーをおおらかに受け入れるだけの器の大きさがなかった。トーゼン、ケンカになるわナ。

 どっちも後へ引かないものだから、そのうち双方とも疲れてきて、水の流れが細くなって水車の回転が止まるように、なんとなく沙汰止みになる・・・というようななことを何度もくり返した。
 
 ま、実質的には当方の負けいくさなので、わしは股のあいだに尻尾をはさみ込みながら、頭のなかでひとり唄ったものだ。
「ききわけのない女の頬を/ひとつふたつ張りたおして/背中を向けて煙草をすえば・・・(中略)・・・男と女は流れのままに/パントマイムを演じていたよ」(阿久悠・作詞/沢田研二・唄)。
 
 だが還暦を超えるころになると、もともと何を言ったところで、相手は何も変わらないことが分かってくる。
 それを言う成句やことわざが、じつはこの世にはゴマンとある。
「雀百まで踊り忘れず」
「漆(うるし)剥げても生地は剥げぬ」
「頭禿げても浮気はやまぬ」
「産屋(うぶや)の風邪は一生つく」
「三つ子の魂百まで」
「馬鹿は死ななきゃ治らない」
 ・・・エトセトラ、エトセトラ。

 何を言っても無駄だと分かると同時に、今まで非をとなえて責めていたコトも、別にイチイチ目くじら立てるほどのことでもないのでは・・・と思えてきた。
 
 そもそも欠点のない人間なんてこの世にいない・・・ということが、この年頃になると頭の理解ではなく、蚊に刺されるとそこに痒みを感じる実感で分かる。

 どんな人間もすべて、あっちやこっちにそれなりの穴ぼこを抱えて生きている。だいいち自分を振り返れば一目瞭然だ。相手の欠点を責めるのは、おのれの尻尾を追いかけてグルグル回っている犬コロと同じ。
 
 ・・・で、恥ずかしくなった。
 カミさんが何を言おうと、何をしようと、突っ込まなくなった。
 長く生きてあとせいぜい10年やそこらだ。
 死ぬまでリチギにいがみ合うことはない。
 あるがままをそのまま受け入れる。
 せいぜいお笑いにしてやり過ごす。
 それで何の問題もない。
 地球は三角にもならない。
 
 それにしても、そのことに気づくのに60年もかかったなんて情けない。
 早く気づいていれば、もっと楽な人生を送れたのに。
 ・・・なんて悔やむのもやめよう。
 すべてはあるがまま。

 

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