ある夫婦の事情(上)
コロナがやってきてから、世界中の人が一斉に励行しはじめたことがある。
言わずとしれた外出時のマスクと、帰宅時の手洗いとうがい。
わしも外出から帰ってきたら、まず手洗いとうがいをやる。やらないとカミさんに叱られる。幼稚園児みたいだけど。
隣の家の主人も同じらしい。
隣家は左右にあるが、片方はほぼわしらと同年輩の老夫婦である。
壁1枚へだてただけでいながら、顔を合わせることはほとんどない。
だが日々の生活音はうっすらと聞こえる。
比較的大きく聞こえるのが、亭主がくしゃみをする音と、うがいをする音である。くしゃみ音は、音はデカいがまあ普通だと思うが、うがい音はちょっと変わっている。
ふつうは、ノドの奥でガラガラとやって、その水を吐き出す、という行為を数度くり返すだけだが、隣の主人のは、水を吐き出したあとに、「カカーッ、カッ!」という、カラスが発作を起こしたような強烈な “念押し” 動作を付け加える。
わしも数年に1度くらい、ノドの奥に魚の小骨が刺さったときなど、「カカーッ、カッ!」とやって、カミさんにウザそうな目を向けられることがあるが、ほぼそれと同じ。
ノドに取り付いたいけ好かないコロナ菌を吐き出し、きれいに掃除して感染を予防するには、刺さった小骨を取り出すに等しい気合と迫力と集中力が必要である、とたぶん隣家の主人は思っているのにちがいない。
この強烈なうがい音を聞くと、わしは遠い過去を思い出す。
いまを去ること遙かなむかし、学生だった頃の話である。
わしはとある民家の2階に間借りしていた。その頃の学生には定番だった6畳1間。押入れつき、風呂なし、トイレと炊事場は共同。
その家に間借りしていたのは、わしひとりではなかった。隣に2間つづきの部屋があり、その2間を若い夫婦が借りて入っていた。
ダンナのほうは20代後半、奥さんのほうは20代半ばくらいだったろうか。
この夫婦、よくある話だけど性格が正反対のカップルだった。
ダンナは地方の貧しい農家の出身で、容姿は端麗・・・といっていいイケメンなのだが、ヘソを曲げた貝のように無口だった。
同じ屋根の下に住んでいた1年半ほどのあいだに、彼と話をしたのは3,4度くらいしかない。人見知りで非社交的な人間の標本みたいな男だった。
一方、奥さんの方は、明るくカナリアのようによく口が動いた。
親は医者。北関東の地方都市で病院を経営しているとかで、彼女はそのひとり娘。見るからに世間知らずの良家のお嬢さん・・・といったタイプで、けっこう可愛らしい顔をしていた。
当時わしは自炊をしていた。
共同キッチンでジャガイモの皮などを剥いていると、用もないのに隣の奥さんが部屋から出てきて、「よくやるわねぇ、えらいわぁ・・・」などと話しかけてきた。
そしてそのあと、わしに関係のない話を一方的にしゃべりまくった。
そんなことまでしゃべってしまっていいの?・・・っていうか、ふつうなら他人には話さないような内輪のことまで無邪気にしゃべった。
いまと違って、女は結婚したら専業主婦になるのが普通だった時代である。彼女は子どももおらず一日じゅう部屋にひとりで居たので、いいかげん退屈だったのだろう。
わしだって当時は若い男だ。すこし年上の、世間ずれしてない愛らしい顔をした人妻と、たわいもない世間話をするのは楽しくないことはなかった。授業にあまり出ない学生だったから時間もたっぷりあったしね。
で、嫌がらないでいつも相手をしていた。いうならキッチンフレンド・・・。
このキッチンフレンドの亭主が、じつは毎日ある儀式を行っていたのである。
朝起きたときと夜寝る前に共同キッチンで歯を磨くのだが、その最後にかならず「カカーッ、カッ!」という “のど掃除” をやっていたのだ。
のどに取りついた雑菌をとり除くにはこの “掃除法” が効果的・・・という医学的知識でもあったのか、毎日欠かすことはなかった。
わしはその音を聞いて朝は目を覚まし、夜はそろそろ寝るか・・・といったアラームがわりににしていた。
現在の隣の主人の、カラスの発作のような “うがいの念押し作業” を聞くと、この、むかしの隣部屋のダンナがやっていた “のど掃除” を思い出すのである。
さて、長くなったが、ここまでは前置きデアル。
この隣室の夫婦の話は、これからが本番デス。
ということで、隣の若夫婦である。
仲はすこぶる良いようだったが、やたら喧嘩もした。
その巻き添えでわしも多少の波をかぶったのだが、長くなったので今日はここまでにして、続きは次回で。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。