人生は「そやな」と「ほな」

鈍行列車

 ときたま、親しい友人や離れて暮らす家族などから、「珍しいものが手に入ったからお裾分です」といって品物(多くは食べモノ)が送られてくることがある。

 わしはこれがあまり好きではない。

 もちろんモノを貰ってうれしくないことはないのだが(とりわけ美味しい食べものは・・・)、貰ったら貰いっぱなしというわけにはいかない。あまり日をおかずに何かお返しをしなければならない。それが面倒なのである。

 贈り返す作業そのものが面倒なのでなくて、「贈り返さなければならない」という心理的シバリが面倒・・・というかどうもわしの気持ちと仲良くなれない。

 そもそも人に贈り物をするというのは、贈りたいモノがあり、贈りたい人がいて、贈ればその人が喜んでくれるだろう・・・と思えるときにするものだろう。

 最初に贈る方は、(何かの謝礼や利害関係のからんだ付け届けは別にして)贈りたいものを贈りたい人に・・・という相手を想う素直な気持ちから出たものと思う。

 贈り返すほうも本来は、ゴキブリが出たら反射的にゴキジェットを手にするるようにではなく、相手が喜んでくれそうな珍しいモノが手に入ったときに、前回のお返しの意味も含めて贈るのが、わしの気持ちに沿う。

 しかしそれを待っていたらいつ手に入るか分からないし、そのうち忘れてしまって、礼を失することになりかねない。

 そこで結局、そのとき手に入る適当なモノをお返しに贈ることになる。
そういうモノを相手がほんとうに喜んでくれるはずはない。

 ・・・と分っていながら、そういう形だけのお返しをしなければならないのが、わしには気が進まない。つまり好きではない。

 話は横っ飛びするが、田辺聖子さんという小説家・随筆家がいる。いやいた。
人間や人生のありていを、大阪人特有のユーモアと大らかさに包んで描く作家で、わしは嫌いではなかった。(最近、彼女が18歳ごろに記した終戦前後の日記が発見されて、思い出したようにマスコミを賑わしています)
 
 一昨年に亡くなったとき、多くのメディアに追悼文が出たので目にされた方もあると思うが、朝日新聞の天声人語は、田辺さんの随想からこんな一節を紹介していた。
「夫婦円満に至る究極の言葉はただ一つ、『そやな』である。夫からでも妻からでもよい。これで世の中は按配よく回る」

 わしの覚書帳にメモしてあったのだが、隣にこんなのもあった。
「生きていくのに最も重要な言葉は『そやね』と『ほな』の2つ。人と話していて相づちを打つときは『そやね』と言い、別れるときは『ほな』と言っていれば、万事うまくいく」

 また少し横へそれるが、ほぼ終着駅に近づいたわしの人生で、いちばん長く相席した人間は言うまでもなくカミさんである。
 旅の途上で、道の小さなデコボコに蹴つまずいたように偶然出合い、同じ列車にいっしょに乗ることになって半世紀以上になるが、そのほとんどを向き合った席に座り、顔をつき合わせて生きてきた。ときどき寄り道したり下車したりしながらの、凡行夫婦列車。

 その旅の間のことをふり返ってみると、前半は、気の立つ若い運転手がやたら汽笛を鳴らすように、じつによく喧嘩をした。
 そしてその喧嘩の原因・理由の99パーセントは、実はどうでもよい些細なことだった。
 
 まさに取るに足らない瑣末なことで感情をイラ立たせ、関係をザラつかせ、生活を荒ませて居心地の悪いものにした。
 今こうしてふり返ってみると、じつにムダで愚かな時間であった。

 どうしてこんな愚を繰り返したのかと考えると、じつに単純なことが理由である。

 双方がどうでもよいことに我を張ったのである。
 それぞれが自我の紐を握っていて、少しでも相手より大きな汽笛を鳴らそうと張り合ったのだ。

 人はそれぞれ、物ごとに対する考え方や感じ方が違う。顔かたちが違うように違うのが自然である。

 人生の方向を決めるとか、生活の有りようを大きく変えるとか、当人の人格に影響を及ぼすとかいった重要な事柄を決めるようなときは、自分の考えや感じることを粘りづよく主張して譲らないこと・・・つまり我を張ることは大切であると思う。

 しかし、どうでもよいこと、取るに足らないことにまで、いちいち我にこだわるのは愚か以外の何ものでもない。
 いたずらにこの世を住みにくくし、生きづらさを作るだけだ。
 にもかかわらず人間はそれをやる。あらゆるところで、何についてでも、やる。犬や猫もやるが・・・。

 中国に、「かたつむりの左の角(つの)の上にある国と、右の角の上にある国とが争った」というよく知られた寓話がある。つまり小さな者同士の争い。つまらないことにこだわって愚かな争いをするたとえで、いうところの「蝸牛角上の争い」。

 恥ずかしながらわしたち夫婦も、実をいうと人生の前半に限らず、ずいぶん歳を取ってからまでも、このカタツムリの角の上の諍いをやっていた。

 古希前後になってようやく分かってきた。遅すぎて穴があれば入りたいが・・・。
 どうでもよい小さなことに、いちいち自分の考えや感覚にこだわっておのれを主張することが、いかに愚かしく子供っぽいか、そして無益であるかということが・・・。
 
 年の功で、そういうことが頭の理解ではなく身体の感覚として分かってくると、先に述べた田辺聖子さんの「そやな」が、なかなか人生の深いところから出てきた言葉であると分かる。オセイさん、美人作家とは言いにくいけど、よう目の見える人やったんやなあと・・・。

 で、その流れで、これまで自分がやってきた愚かな言動のくさぐさが、つぎつぎに頭に思い浮ぶ。
 冒頭で述べた「贈り物」に関するわしの反応(違和感)もその一つだ。

 せめてこれからは、先に引用した田辺さんの言葉をケンケンフクヨウして、残り少なくなった余生と仲良くしたいと思う。

 ほな・・・。

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人生は「そやな」と「ほな」” に対して 2 件のコメントがあります

  1. むらさき より:

    そやな(///ω///)♪
    まだまだ未熟で血の気が多くてダメだな~(((^^;)
    ほんのこの前もケンカしたとこ(((^^;)
    「そやな」が言えるまでにはまだ20年はかかるな(((^^;)

    1. Hanboke-jiji より:

      むらさきさんはまだカンレキ前なんでしょ。
      本記事中にも書きましたが、わしなど「そやな」の
      大切さに気づくのに、カンレキからさらに10年ほと
      かかりましたもん。
      いあや~、生きるのはタイヘンですワ。

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