親 友(1)
前回、「持つべきものは友」ではない、「敵こそ味方」である、という少々ひねくれた考えを述べたが、それはわしの人間がひねくれているからだけではなく、まさに前回に書いた通りの体験をした過去があるからである。
その体験は、わしの人生の中では少々重い出来事なので、今回から数回にわたって、やや具体的に、あまりふざけないで書いてみようと思う。(前回の『敵こそ味方』はこちら)
ハナからあまり自慢できないことをいうが、わしは大学にご丁寧にも通常より三年も長く在籍した。
勉学に熱心だったわけではない。七年間の在学中、教室に出て授業を受けた時間は、おそらく三割にも満たなかったのではないか。
ではいったい何をしていたのか。
おもなものは二つである。
一つはまず学費や生活費を補うためのアルバイト。
そしてもう一つは学生演劇である。
こっちは学業そっちのけだった。いわゆる若気のいたりではあるが、まあ愚かな身持ちだったといまは思う。
しかし、その演劇サークル活動を通して、わしはひとりのかけがえのない友を得た。仮に名をSとしよう。
さて、わしが演劇部に入部したのは、じつは演劇が好きだったからではない。
思春期に入った頃、わしは自分が生まれつき社交べたであることに気づいた。それが当時の最大の悩みだった。
大学進学への準備をはじめた当初から、受験の縛りから解放される大学生活では、何よりもまずこの人付き合いべたを克服したいという思いが強かった。
そんなわしにとって、入学後の演劇サークルは最適の部活に思えた。(その後ろにあったもう一つの本音をいえば、女の子と仲良くなるのにも最適な環境では・・・という期待もあった。)
一方、同時に入部した同学年のSは、根っからの演劇青年だった。
中・高校時代から熱心に演劇活動をしており、わしと知り合ったころにはすでにかなりのレベルの知識と技術を身につけていた。
彼は心から演劇を愛していた。
そんなSと、動機に不純なものをかくし持っていたわしは、いうなら水と油的存在のはずだ。そういう水と油が、つねにいっしょにいる特別の関係になったのには、それなりの経緯がある。
演劇部に入部して一年も経つと、わしにはある不満が生じた。
取り上げるレパートリーが海外の戯曲ばかりで、現代の日本に生きる自分たちの思いや心情からかけ離れている・・・という違和感を強く覚えたのである。
そこで当時エネルギーもスケベー心も、ついでに青くささも目いっぱい持っていたわしは、目の上のたんこぶ的先輩たちが卒業していなくなると、サークル内である主張をはじめた。
歴史も環境も生活感情も異なる外国の作品ではなく、サークル活動の主体である自分たち日本の若者にリアルな作品を取り上げるべきではないか。
そういう戯曲が周辺にないならば、自分たちで書いてでも・・・と主張したのである。
もちろん、演劇的経験のない山出しのわしが、田舎者の鈍感と厚顔を丸出しにしていきなりそんな主張しても、(たとえその言い分に一理はあったとしても)すんなり通るわけはなかった。
都会育ちで、演劇の知識はもちろん、文学的素養のある者も多かった他の部員たちに冷笑をもって迎えられた。
まあいま思えば、そういう反応は当然だけど。
ところがそんな中で、ひとりだけわしを支持してくれた部員がいた。
それがSである。
Sは前述のとおり、演劇的訓練や実体験において、部員のなかで一頭地を抜いており、誰もがそれを認めて一目おいていた。そんな彼を、他の部員たちも無視することはできない。ある部会で、部員のひとりがわしに訊いた。
「自分たちにリアルな作品っていうけど、たとえばきみは、具体的にどんな作品を考えているわけ?」
わしはあわてた。トンマなことに、答えの用意がなかったからである。当然、それくらいの準備はしておくべきだった。
返答にまごついていると、質問した部員はあきれたような声を出した。
「なんだ、すぐに推せる作品はないの?」
別の部員がにやにやしながら引き継いだ。
「だったら自分で書いてみたら? 適当な作品がないなら自分たちで書いてでも・・・というのがきみの主張なんだろ?」
「そういやあそうだな。それがいい。まずお手並みを拝見しようじゃないの。話はそれからだな」
明らかに小バカにした薄笑いの視線がわしに集まった。
わしは内心青ざめた。
それまで戯曲を書いたことなど、まったくなかったからだ。書いたことがあるのは親への連絡のハガキくらいだ。
だが話のなりゆき上、後へ引けなくなったのである。
そして地獄が始まった。
(すでにだいぶ長くなったので、続きは次回で。)
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