脳梗塞の急襲(その8)

脳梗塞の急襲

●聞こえる

 院入当初に数日間入っていたICU(集中治療室)は別にして、一般病棟に移ってからは、わしの入っていた病室は4人部屋だった。
(脳梗塞シリーズのこれまでの回はこちら→

 各ベッドは大きなカーテンで完全に仕切られているので、カーテンを閉めればほぼ個室状態である。もちろん音はカーテンでは仕切れないので、そのまま聞こえてくるけれど・・・。
 
 ・・・というよりは視覚を遮られていると、逆に想像力が刺激されるのだろう、隣のベッドから聞こえてくる音は、妙にリアルに耳に響いてくる。
 咳やくしゃみはもちろん、あくびや小さなため息なども、いやに生々しく聞こえる。

 ベッドの上では患者は何もすることがなく、ただ天井を眺めているだけなので、よけい耳から入ってくる情報に敏感になるのかもしれない。

 あるとき隣のベッドから突然、
「あんまり甘く見るなよッ!」
 と怒気をふくんだ声がした。
 あれ、隣にはいま看護師も誰も来ていないようだったが・・・と思っていると、直後にいびきが聞こえ始めたので寝言だったと分かる。・・・というようなことは日常的な風景だ。
 
 そういう寝言から想像すると、入院中は誰もあんまり楽しい夢は見ないようだ。
 そりゃそうだよね。宝くじが大当たりして億単位の大金が大金が転がりこんできたとか、美女に言い寄らて鼻の下が長~く伸びたとか・・・みたいな夢はまあ見ないわな、病院のベッドの上じゃネ。

 一方、突然「ウゥ・・・ウゥ・・・」というような忍び泣きの声が聞こえてくることもある。
 必死に食いしばっている歯の間から、どうしようもなく洩れてくるような声だ。
 
 そういう声を耳にするのは切ない。
 肉体的な痛みなのか、心の痛みなのか分からないけれど、その人の心の内がリアルに響くような気がするからだ。こっちまでいっしょに声を上げて泣きたくなる。
 
 それでいてそういうすすり泣きの合い間に、チュッチュと歯をせせるような現実音が挟まったりするのも、なぜか切ない。
 
 もうひとつ聞いていて辛いのは、喉にタンを詰まらせて苦しんでいる人である。

 大量にタンが出て喉にひっかかり、なかなか取れないらしい。
 またそうなると意地のようになって取り出そうとする気持ちになるようで、自分の喉に居座っている巨大な怪獣か妖怪と大格闘でもやっているような、実にびっくりするような声を出す。とても人間の出す声とは思えないような・・・。
 それが周辺の病人たちにどのような迷惑をかけているか、というところまで心がまわらないのだろう。
 
 その人は、タンが詰まっていない時はじつに静かで、知的な品さえ感じさえる人なのだ。それがそういう状況になると、まったく別人になる。荒ぶる鬼神になる。そんな様子が耳だけから入ってくると、胸を抉られるような気がする。
 
 まるで別の理由から出てくる声もある。
 張り巡らされたカーテンの中にひとり置いておかれると、そのこと自体に神経が耐え切れなくなってくる時がある。で、用もないのに看護師を呼びたくなる。
 
 その患者は途中から別室に移っていった(あるいは強制的に移されたのかもしれない)が、思い出したようにとつぜん声を上げだすと、のべつ幕なしに声を出し続ける。
 
 だだし、いつもだいたい同じ言葉だ。そして順序がある。
 最初のうちはまずふつうに「看護婦さーん」と看護師を呼ぶ。
 彼は70歳前後で、認知症が入っているらしく、看護師を呼ぶのにボタンを押すという発想がない。
 
 ナース・ステーションはそれほど遠くではないのだが、声は届かないらしい。あるいは届いていても、毎度のことなので放っておかれるのかもしれない。
 で、しだいに声が大きくなる。
 それでも誰も来ないと、呼び方を変える。
「誰かぁ~」→「娘さ~ん」→「お嬢さ~ん」、さらには「奥さ~ん」とか「女将さ~ん」まで動員される。(「女将さ~ん」と呼ばれた看護師はどんんな気持ちになるんだろうねぇ)

 それでもだれも来ないとなると、さすがに彼も一休み入れる。しかしその間ただ休んでいるのではなく、彼なりに頭を働かせるらしくて、しばらくして出す声はまた違った言葉を引っぱり出す。
「寒いよォ~、凍えるよォ~」
「オシッコ、オシッコが出るよォ~ッ」
「水だ、誰か水をくれぇ~、干上がっちゃうよォ~」
 それでも反応がないとなると、奥の手を出す。
「助けてぇ! 誰か助けてくれぇ~ッ!」
「SOS! SOS!」
 彼なりの計算だろうが、じっさいにどっか切羽詰まったものも感じられて、哀れを催す。ひとり放っておかれていることが、耐えきれないくらい辛いのだと思う。
 
 他の患者だって声に出さないだけで、内心はほぼ似たような気分になっている。だからよけい彼の声が神経に触るのだろう、やがて誰かが苛立った声で怒鳴る。
「うるせぇーッ、いいかげんに黙れ!」
 
 それで一瞬声はとぎれるが、そのまま静かになることはない。しばらくるするとまた同じような連呼が始まる。選挙の宣伝カーのように・・・。
 
 人生にはいい時も悪い時もあるが、入院する時というのは、間違いなく後者だなぁ~。
 ホント、病気だけはするもんじゃないねぇー。
 
 ・・・って、好きでなるもんじゃないけど。
 

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