感動するある女性

腰の曲がった老婆

 実はわしは今、ある女性に感動している。
 
 ・・・と書くと、どうせ若いキレイな女でしょ・・・と思われるかもしれないが、憚りながら今やわしは、そういうことにはテンションは上がらない。
 
 何度も書いているが、わが家は小さなマンションの2階にある。
 道路に面する側にけっこう広いベランダが付いていて、毎日欠かさずこのベランダに出て、朝の体操をする。・・・ことになっている。
  
 ・・・などと言うと、何やら爽やかにサッソーとして聞こえるが、じつを言うと「朝の体操」という言葉がかもすハツラツにして健康なモノはない。残念ながら脳梗塞後のリハビリをモソモソやっている、といった、ソートー冴えない感じが実態にちかい。
 
 そのベランダのすぐ前は生活道路だが、その一部がゴミの収集場所になっている。
 ちょうど朝わしが体操している時間に、近隣の人がゴミを持ってやってくる。かなり遠くからも来る。ときに車でくる人もいる。

 手許の袋から、ビンやアルミ缶を取り出して収集カゴに移す音が、ひとしきり賑やかに聞こえる。うるさいと思う人もいるだろうが、わしはこの朝のひとときの音が嫌いではない。典型的な庶民の生活音だからである。
 
 ところでゴミを持ってくるのは、中年主婦が多い、と思われるかもしれないが、そうでもない。近ごろゴミ出しをするのは、いわゆる65歳を過ぎた老年の人たちが中心である。少なくともわが家の前の収集場所ではそうだ。

 意外なことに男性もけっこう多い。
 定年になって会社に行く必要がなくなった亭主たちが、
「いちンち何もすることがないんだから、せめて朝のゴミ出しくらいやったら?」
 などとカミさんから言われているのかもしれない。
 あるいはゴミ出しくらいしなきゃ、1日外の空気を吸うチャンスがない、と、自ら尻を叩いてやっているということもありうる。
 
 ともあれ男女を問わず、70歳を越えていると思われる老人もけっこう多いのは、最近 高齢者だけの世帯が増えていることのアカシでもあるかもしれない。ほかに出す人がいなきゃ、自分でやる以外にないもんね。わが家を、ときにテレビで報道されるみたいなゴミ屋敷にしたくなければ・・・。

 さらにいえば、老人だけで生きているからこそ、少しでも体を動かして、寝たきりにならないようにしたいという、彼らなりの努力の結果かもしれない。男の老人のゴミ出しが増えている背景には、こっちの方に理由があるのが正解の気がする。

 そういう老人のひとりに、特別に高齢の人がいる。
 男ではない。おそらく85歳はまちがいなく越えていると思われる老女である。ひょっとすると90歳を越えているかもしれない。
 腰は “くの字” に曲がり、顔はあと数十センチほどで地面にくっつきそうである。落ちている小銭を拾うには便利だが、こんな体で歩くのはさぞウットーシーだろう。

 わしが子供のころの田舎では、そういう老人をちょくちょく見たものだ。が、今ではほとんど見かけない。かつての田舎にそういう老人がいたのは、朝から晩まで鍬や鎌を手に、地を這うようにして仕事をする毎日を長年送っていたからだ。

 話を戻すが、そういう今どき珍しい絶滅危惧種風の高齢女性が、ゴミ出しの日はどこからともなく現われて、トコトコ歩きながらゴミを出しにくる。
 こういう風体の老女が今でもいるんだ、と最初は驚き半分懐かしさ半分で眺めたのだが、足音が明らかに他の人とちがうので、その後もつい当方も体操の手を止めて目をやってしまう。
 
 こんな体でゴミを手にして歩くのだから、わしの体操以上に動きはにぶい。ほとんど人間カタツムリ。10センチ前後の歩幅で、超ゆっくりと足を運ぶ。当然時間もかかる。他の人々が次々と追い越していくが、そんな人たちには目もくれず、足も止めず、ひたすらカタツムリ歩行をつづける。
 
 わが家の2階のベランダから見ているだけだから、家がどこにあるのか知らない。だからどのくらいの距離をこうして歩くのか分からない。
 だがゴミ出しの日はまず1日も欠かさない。さすがに強い雨や風の日は姿を見せないが、弱い雨だけの日は、片手に傘をさし、もう一方の手に袋を下げて現われる。

 出すゴミが多い日は複数回往復する。一度など、捨てるダンボールが大量に出たらしく、小分けにしてかなりの回数往復したときがあった。わしは自分の体操が終わっても、彼女が来なくなるまでベランダにいたままだった。
 
 おそらく彼女は独りで生活しているのであろう。連れがいるとしても、年のあまり違わない亭主だけのような気がする。それも寝たきりか、脳梗塞か何かで体の不自由な・・・。
 
 じつはわしは彼女の姿を見ると妙に感動する。
 こんな不自由な体でも、どんなにしんどくても、あるいはどんなに人から不憫がられても、これだけは断固として自分でやる、やり続けるというような意思というか、覚悟みたいなものを感じる。
 彼女のことを思えば、老人ゆえの愚痴泣き言など言っておれない気がする。
 
 それでも時々考える。
 いまは体が健康らしいからいいが、またその健康を維持するために・・・というのがモチベーションになっているのかもしれないが、この年齢の健康は、わしの脳梗塞が証明するように、いつ何どきどこへ行ってしまうか分からない。
 そのとき彼女はどうするのだろう・・・とわしはつい思ってしまう。
 
 そうなればそうなったで、不十分ながらも社会の「介護インフラ」に頼るのであろうが、彼女の小さな生きがいは失われてしまう。
 なぜか切ない。よけいなお世話だけど・・・。
 
 まあそれが老いるということの現実なのだが、人生100年時代というのは、人間にとって少しも喜ばし時代じゃないんじゃないの? ・・・って気がするのはわしだけだろうか。
 

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