THE LAST BUS

THE LAST BUS

 親が長く住んでいた海辺の小さな町に引っ越してきて3年が経つが、この町に映画館などという文化施設があるとは全く知らなかった。思いも寄らなかったと言った方がいいか。
 
 ところが先日、ひょんな偶然から、わが家からそれほど遠くないところに映画館があることを知った。
 家から歩いて25分ほど。
 波が打ち寄せる浜辺から50メートルと離れない住宅地に、その映画館はあった。

 しかし外から見ると、古びた洋館風の民家にしか見えない。
 それも、海辺に生えるゴツイ感じの樹木に囲まれた、ホラー系の映画にでも出てきそうな雰囲気の家だ。垣根に掲げられた看板に気づかなければ見過ごしそうである。
 
 ふつうの家と変わらない門を入り、5,6メートルほどのアプローチを経て、やはりふつの家と変わらない玄関を入る。
 するとすぐ目の前がもぎり場だった。小さな喫茶店の厨房のようでもある。
 そこに30代半ばの、ちょっとアーティスト風の女性がいて、にこやかな笑顔で迎えてくれた。
 入場料は入るときではなく、帰るときに払ってもらうという。

 60歳以上の入場者はシニア料金があって600円安くなるけれど、数百円の追加料金で飲み物を提供できるという。

 すぐ目の前に場内が見渡せる。ふつうの映画館のように座席が目いっぱい並んでいるのではなく、むしろどこかサロン風である。
 あちこちに空間があり、椅子は肘掛椅子あり安楽椅子ありとさまざま。
 ところどころに丸型や方形型の古風なテーブルも置いてある。座席は合わせて20席もなさそうだ。

 こういうところでは、飲み物を飲んであげないと採算がとれないのでは・・・という気がしてコーヒーを注文した。

 入ったのは上映15分ほど前だったが、私たち夫婦が最初の客だった。
 中央にあるふかふかした安楽椅子にすわって待つうち、あともう一組の老夫婦と、30代の若い男がひとり入ってきて、結局入場者はそれだけだった。
 
 大きなカップに入ったコーヒーが目の前のテーブルに運ばれてきて、まもなく場内が暗くなった。
 ちなみにコーヒーは、こだわりのある入れ方をしているようで、ちょっと変わった味がして美味しかった。
 
 映画は、原題を『THE LAST BUS』といった。邦題は『君を想い、バスに乗る』。
 あらかじめ得た情報はなにもなく、題名と、チラシに載っているキャッチフレーズだけの勘で選んだのだが、いわばわしたちにふさわしの映画だった。
 
 60年近くを共に暮らした妻を亡くした90歳の老人が主人公である。
 家族はほかに誰もいないらしく、住んでいた小さな家をたたんで、ある日彼は旅に出る。

 胸になにか想うところがあるらしく、全国どこでも路線バスが乗れるフリーパスを使って、イギリス縦断の旅をする。
 つまり映画は、日本でいうなら下北半島から下関まで行くような、長いロードムービーである。歩く足取りも覚束なげな老人ひとりの・・・。

 予想されるように、道中でさまざまな出来事に出遭う。
 見ず知らずの人との心温まる触れ合いもあれば、お前それでも人間か・・・と腹が立つような冷たい仕打ちをする人とも出会う。

 ほっと心休まる時間もあれば、寒風のなかでゴツゴツした岩の上に座っているような辛い時間もある。
 
 そうした旅の合い間に、生前の妻との想い出がフラッシュバックで挿入される。若く美しかった頃に出合ったシーンから、老衰して死ぬ場面までのあれこれが、旅する老人の脳裏に浮遊する。
 
 最期にようやく、この主人公の旅の目的らしきものが分かる。
 終りの方で、たまたま見知らぬ人と雑談を交わし、訊かれて行く先は○○だととある地方の名前を口にする。
 
 そこは彼の生まれた場所に近い所だった。その村のはずれの墓地に、雑草にほとんど埋もれている小さな墓石があった。
 老人と妻との間に生まれたが、3歳のときに夭折した娘の墓であった。
 
 この映画は昨年(2021年)に英国で制作されたもので、ごく新しい映画である。が、以上に述べたところで分かるように、昔ながらの古風な作風である。
 しかし一部分に、極めて新しい世相を取り入れている。
 
 道中、あまりにも無礼なふるまいをする若者に、よろよろする足を踏ん張りながら、主人公が毅然として意見をする。
 それをたまたま近くにいた人がスマホで撮り、SNSに上げる。その結果、90歳の老人のひとり旅が、少し世間に知られるようになる。以後ちょくちょく彼の旅の様子が、SNSの上がるようになる。もちろん彼はそんなことなど知る由もない。
 
 彼の旅の終着地となるバス停にバスが着いたとき、そこには3,40人ほどの人たちが集まっている。
 そしてバスを降りた彼に向かって拍手を送る。
 もちろん主人公の老人は、それが自分に向けられた拍手であるとは思わない
 
 物語の山場といえばほぼそのシーンひとつである。
 あとはたいして大きな事件もなく、心を動かす激しい出来事もない。スクリーン上にはどこにでもありそうな、ありふれた場面がただ流れていく。

 だがわしの目には絶え間なく涙があふれてきて困った。

 ドバっと噴き出る涙ではない。しかし途切れることなく、上映中じわじわとほとんどずっと頬の上を伝いつづけた。さっき飲んだコーヒー分がぜんぶ出てしまったのでは・・・と思われるほど。路上でもらったティッシュペーパーが使い果たしてしまった。

 前回で書いたように、年をとって涙腺のどこかが壊れてしまったのだろう。
 それも脳梗塞を患って以降、特に激しいような気がする。
 これもわしの今の現実である。
 

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当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。

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