結婚タクシー説(縁は魔モノ? 貰いモノ?)
国連の推計によると、2015年の地球上の人口は約73億5千万人で、男女ほぼ半分半分。
だから結婚する相手は、気の遠くなるような宇宙的数の異性の中からたった1人を選ぶわけで、どういう理由・・・というか筋道でその特定の相手にたどりつき、その後一生を同じ屋根の下で暮らすことになるのか・・・と考えるだけでやっぱり気が遠くなる。
誰でも一度はそんなことを考えるのではないだろうか。
”縁は魔モノ” と言われるのもその辺のことがあるからにちがいない。
時実新子という川柳作家(2007年没)が、生前、小説家・田辺聖子との対談のなかで、夫婦の縁のふしぎに触れて、次のようなことを言っている。(田辺聖子編著『男と女は、ぼちぼち』)
「ちょいとそこまでのつもりが、いつのまにか添い遂げてしまうことになった」
実はわしら夫婦の結婚も、この言葉そのままだ。
いやわしらというより、正確には女房にとって、というべきだろう。
その理由を説明するのが、とりあえず当記事のモチーフである。
結婚してまだそれほど時間が経っていないころだった。何かのきっかけでわしは知ったのだ。わが新妻が実は筋金入りの独身主義者であることを。
正直言ってわしは驚いたね。まさに、気持ちよく寝ている耳に水を注ぎこまれた気分。
よく聞いてみると、彼女は親をはじめとする周辺の夫婦を見ていて、子供のころから、結婚に対する女の子らしいあこがれなどミジンコのフンほども持たなかったという。
むしろ嫌悪感のほうが強く、自分は生涯独身を通して生きていく、と固く決心していたというんだよね。
その女と現に結婚している亭主としては、そりゃ驚くよ。そしてあんまり気持ちよくない。とつぜん脇の下あたりに蚤がのこのこ這いだしたみたいで、なんか落ち着かない。
人の生き方はそれぞれだし、むろん結婚に対する考え方もいろいろあっていい。そのことをとやかく言うつもりはない。
だが、それならなぜわしと結婚したのか、ということが引っかかった。当然だろ。そんな “ソノ筋のスジガネイリ” が、どうして親の仇のような結婚話にいとも簡単に乗ってきたのか、って話だ。
実際彼女は、わしのプロポーズに、まるで幼稚園児が友だちの三輪車にでも乗るように、気軽にひょいと乗ってきたのだから。
もちろんわしはその疑問をぶつけてみた。するとこんな答えが返ってきたのである。
「手を上げてもいないのに、目の前でタクシーが停まってドアが開いたから、これも人生の一つの経験だと思って試しに乗ってみたのよ。結婚ってどんなものか、一度くらい体験しておくのも悪くないかなと思って・・・」
正直、思ってもみなかった答えだったね。試しに乗られたタクシー運転手としては、思いっきり急ブレーキを踏んでやろうかと思った。
しばらくは、車を止めようかどうか悩んだもんだった。
しかしまあもっと大きなオドロキは、それからほぼ50年が経つのに、未だに女房がタクシーから降りていないことだ。
この50年間、とくべつに安全運転や手厚いサービスを心がけたわけではない。ごくふつうの運転・・・いや時にはソートーひどい乱暴運転もしたのに、よくも途中で乗り捨てなかったものだと思う。いつなんどき「もうこの辺でいいわ。降ろして!」と言われてもおかしくなかった。
そういうところにも、「縁は魔モノ」と言われるもうひとつの理由があるのかもしれない。
しかし一方、人生街道のどん詰まり近くまできて思うのは、結婚のいきさつといい、その後の道中といい、すべて自分たちの意思で選択してきたように思っているが、実は始めから終わりまで誰かさんから与えられている決まった道を、ただあたふたと辿ってきただけのような気がしないでもない。
だとすると、「縁は魔モノ」ではなく、「縁は貰いモノ」と言うべきかもしれん。