縁起でもない
「縁起でもない」という言葉が日本にはある。
ふだんからよく耳にする。
なぜ? なぜ日本人はこういうことを言うのだろう・・・と思う。
この言葉が使われる状況を考えてみると、そう言うことよって、死にかかわる問題を避けようとしているのは明らかだ。
しかし最近はすこし様変わりしてきたようだ。
少しまえ、某週刊誌が「人が死ぬときに必要な知識」をトツプ記事に取り上げたら、大ヒットした。発売後1日2日で多くの書店の店先から消えた。
すると親ガモにつづく子ガモのように、他の週刊誌も尻尾をふりふり後につづいた。
どころか、2度も3度も同種の記事を多少装いをかえて扱った週刊誌もある。品不足で、たまたま思いついて仕入れた品物が意外にうけた。味を占めてこんどは大量に仕入れた。
ことほどさように、いまや「死」に関する記事は「売れる」のである。
生きものは、生まれたら必ず死ぬ。
ようやくそのことに気づいて、前例をやぶり “縁起でもない” を最初に無視した某週刊誌は、やはりエライとホメるべきなのかもしれない。
それとも、100%やってくるのに目を背けていて、いざとなってから慌てふためく愚をくり返してきたこれまでの日本人を、嗤うべきなのか。
実をいうと、この問題はわしにとっても他人ごとではない。
なにしろ百歳目前の高齢者を身内に抱えているからだ。無視したり先延ばしするには無理がある。
・・・にもかかわらず、つい最近まで、死の話を正面きってもち出すことをしなかった。なんのことはない、問題から逃げて先延ばしするバカは、まさに自分たちだった・・・というみっともない話をいまわしはしている。
忸怩たる反省をこめて白状するが、じつは誰を喪主に立てるのかさえまだ決まっていない。”縁起でもない”ことなので、いままでその話を持ち出すのに腰がひけていた。それでいて腹のなかでは、焦りの炎がチリチリ揺れていた。
先にのべた週刊誌にまっ先に飛びついた日本人は、実はこのわしだった・・・という話をきょうは書いた。情けないオチだね。
でも、ようやっとここへきて、肚をすえて、この問題に向き合おうとしている。
100歳の老母だけでなく、80歳をこえたわし自身も当事者だしね。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。