真坂の人生(2)

 よく知られているが、
 「人生は重き荷を背負いて長き道を行くが如し」
 と徳川家康は言ったという。

 わしは前回、家康の向こうを張った訳ではないが、
 「人生は “まさか(真坂)” の連続を行くが如し」
 と言って、おのれの体験をその一例として書いた。
                   ( → 前回はこちら
 しかし、このわしの「一例」はいかにもお粗末な一例で、ブログをUPしてからずっと、「人生の真坂」に対して申し訳ない気がしていた。
 
 そこで今回は、もっとちゃんとした「真坂」を書いてみようと思う。
 
 ただしこれはわし自身の体験ではない(言うまでもないけどネ)。何かで読んだ実話である。だがいい話なので紹介したい。主人公の詠んだ短歌を覚書帳にメモしてあったので、それを基に思い出しながら書く。
 
 仮にSさんと呼ぼう。Sさんとその奥さんは、どこにでもいるごく普通の日本人夫婦である。ふだんから会話が少なく、夫婦二人だけで旅をしたことなど、新婚旅行以来いちどもない。
 
 そういう関係だからだろう、子供が巣立ってふたりだけになった家に、定年後の夫がいつもブラブラしているのを、奥さんはうとましく思うようになった。
 ・・・というようなところも、まあよく言われるニッポンの老夫婦の風景だろう。
 
 Sさんはとりたてて趣味がない(これもよく聞く話ネ)。文字に親しむなど論外。目に入れる文字はせいぜい新聞のスポーツ欄とテレビ欄くらい。あとはソファーに横になってダラダラとテレビを眺める。そして、「ゴロゴロしてないでたまには外でも歩いてきたら」という奥さんの不機嫌な声に追い立てられて、近所へ散歩に出る。おおくは帰りに商店街に寄ってパチンコをやる。
 
 そんな日々を送っていたSさんに、ある日、思いもしなかった事態が起きる。それまで病気らしい病気などしたこともなかった奥さんが、重い脳梗塞で倒れたのだ。
 
 Sさんにとっては、まさに「まさかもまさか」である。
 茫然自失となったSさんは、奥さんが入院しているあいだ部屋の掃除もせず、カーテンさえ開けず、空腹はコンビニ・スーパーの出来あいや冷凍食品でしのいですごした。
 
 しかし、奥さんが退院して家に戻ってくるとそうもいかない。
 奥さんには、言語障害と右半身不随という後遺症が残った。
 だが、新たに左手を訓練しようという姿勢は見られなかった。半身マヒによる自信喪失→生きる意欲の消失・・・ということも高齢ゆえにあったのだろう。
 
 それまで家事など一切したことのなかったSさんだが、掃除、洗濯、炊事を始める。自分以外にやる者がいないのだから仕方がない。すでに家庭を持っている子供には迷惑をかけたくなかった。
 
 家事を始めてまもなく、Sさんはこの仕事がいかに大変であるかを思い知る。妻が長いあいだ愚痴・泣きごとも言わずにやっていたことに、感謝する気持ちが自然に湧いてきた。
 
 それを奥さんに伝えたいと思ったが、哀しいことに、面と向かうと素直に口にすることができない。長い間つづけてきた夫婦の有りようを突然変えることは難しい。
 
 そんな時たまたま点けたテレビが、NHKの「介護百人一首」という番組をやっていた。同じような介護をしている者として身につまされる歌が多く、興味をひかれ、毎週欠かさず見るようになる。そのうちなんとなく自分でも作ってみたくなった。
 
 見よう見まねでやってみると、案ずるより産むが易しという感じで歌ができた。正直自分でも驚いた。まさか自分に短歌が作れるなんて。
 
 もちろん稚拙なものであることは重々承知だ。思うこと感じることをただ三十一文字にしただけだ。だが、今までお腹の中によどんでいたものを外へ出すということは、まるで予想しなかった快感だった。
 
 次第に夢中になり、家事・介護の合間をぬってひそかに勉強を始めた。そうして一年ほどのちに詠んだのが、某大新聞の短歌欄に投稿してみたら入選した次の一首である。
 
 半世紀妻が立ちたる厨房か病むその妻に今宵粥炊く
 
 Sさんはそれまで、歌を作っても奥さんには見せなかった。何とはない気恥ずかしさと、訳のわからない抵抗感が邪魔をした。歌を作っていることさえ隠していた。
 
 だが入選を機に、思い切って奥さんに新聞を見せた。奥さんは最初ふしぎそうな顔をしたが、ふいにその目に涙をあふれさせた。
 
 それからはこそこそしないで大っぴらに歌を作った。そして幾つかたまると奥さんに見せた。それを読むときの奥さんの反応がさらにSさんを勇気づける。
 
 Sさんは本格的に勉強をはじめた。少しでも時間ができるといつも短歌のことを考えるようになった。新聞の入選も度重なる。
 
 少しずつ奥さんの様子が変わった。
 生きる意欲を見せるようになった。リハビリに積極的になり、Sさんの傍らに立って料理づくりを教えたり、手伝ったりするようになった。
 
 それだけではない。自分でも短歌を作りたいと言いだし、左手に鉛筆をにぎって実際に作るようになった。
 もちろん、”先輩歌人” である夫に教わりながらである。信じられないことだった、言葉が不自由になって夫婦の会話が増えるなんて。
 人生って不思議だ。
 
 一方、人生は過酷でもある。そんな奥さんを再度の発作が襲う。こんどは一回目よりさらに重く、ほとんどベッドから起きられなくなった。言葉の不自由さも増した。そしてSさんが買い物や、やむをえない用事で家を留守にしなければならないときは、いかにも悲しそうな顔をした。
 
 Sさん夫婦は4階建ての団地の3階に住んでいた。Sさんは出かけるとき持って出る玄関の鍵に、小さな鈴を付けた。帰ってきたことを少しでも早く妻に知らせてやろうと・・・。
 
 病む妻のひた待つ三階の鍵の鈴手に鳴らしつつ階段昇る
 
 さらに1年ほどが経って、奥さんの病状が悪化し、入院しなければならなくなった。するとこんどは奥さんが、毎日見舞いにくる夫のことを歌に詠んだ。
 
 「また来る」と言いて病室出る夫の背いたくまるくなりたり
 
 そんなつつましやかな老いの相聞歌のやりとりを重ねながら、奥さんは亡くなった。妻を喪って生きる意欲を失いかけたSさんを支えたのは、やはり短歌だった。
 それまでに読んだ歌を整理し推敲することが、Sさんの日々の仕事になった。それは奥さんとの最後の数年間を、もういちど生き直す作業でもあった。そして推敲整理が終わると、ささやかな歌集に編んで自費出版した。
 
 これも予想しなかったことだが、歌集はその地方でちょっとした評判になった。
 そして、さらに考えもしなかったことに、当地のカルチャーセンターから短歌講座の講師に乞われた。技巧やけれん味よりまごころを大切にするSさんの手法とともに、雨の日も風の日もネクタイをきちんと締めてにこやかに現れるSさんの人柄に魅かれ、リピーター受講者も出るほどだった。
 
 ありていにいえば、定年までのSさんの人生はごくごく平凡だった。
 ところが定年後になって大きな「真坂(まさか)」に出会った。その結果、それまでは夢にも考えなかった「短歌の先生」になった。
 
 きっかけはよもやの奥さんの発病だ。
 最初はおのれの不運を嘆いたが、実はそのおかげで結婚後初めて夫婦らしい夫婦の時間が持てた。わずか数年間ではあったが、もしこの数年がなかったら、Sさんは自分の結婚や人生はいったい何だったのだろうと、寂しさや虚しさをぬぐえなかったのではないかと思う。
 ついでながら、この話に出逢って以降にわしの目にとまり、やはり覚書帳に拾っておいた別の人の詠んだ同種の歌をもう一首紹介する。
 
 片(へん)麻痺の動く片手に蚊がとまり妻はくやしく口で噛みつく
                       兵庫県・安藤勝之
 
 

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