真坂の人生(3)

 前々回、前回と「人生のまさか(真坂)」について書いた。
                      (→ 前々回前回
 前回をアップしたあとで思い出した。もうひとりの、とてつもない大きな「まさか(真坂)」を歩いた人のことを・・・。
 
 この人も、たまたま読んだ本で出会ったのだが、まだ若いのに想像を絶する人生で、世の中にはこういう人もいるのだ、と仰天した。
 「まさか(真坂)」の話を書いてこの人に触れないのは、キスをして唇に触れないのに等しいような気がしてきた(ナニそれ?)ので、あともう1回だけ「真坂の人」の話を書く。
 
 その人は大野更紗さん。女性である。
 彼女の著書『困ってるひと』を読んだあと、その要約を記した覚書帳が手元にある。本は図書館から借りて読んだのだが、その生きざまに感動して、この人の人生を思えばどんなにつらいことがあっても乗り切れるぞ・・・と思って、かなり細かくメモを取ったのである。だがこのブログを書くために、再度図書館から借りてきた。
 
 彼女は執筆当時(2011年)二十六歳だった。
 生まれたのは彼女が「ムーミン谷」と呼ぶ山奥の村で、外部へつながる道が「杉の森林にはばまれているため、昭和の残りかすみたいなかわいい営みがまだ残っていた」(括弧内は同書からの引用。以下同)。そして「直角に腰の曲がったじっち、ばっぱらが、手ぬぐいを頭にかぶり、モンペ姿でせっせと畑を耕し」ているその村には、「よろず屋のような小さな商店が一つあるだけで、車に乗れない老人のために週に一回、生鮮食品などを扱う移動販売車が下の町からやってきて、『さざんかの宿』を大音量で流す」ような村だった。

 過疎村であそび友だちがいない上に、彼女は一人っ子だった。両親はともに昼は仕事で家にいないので、テレビを見るか本を読むしかない。親は放っておく代わり本だけは十二分に与えたので、しぜん本好きになり、子供の頃から大量の本・雑誌をがぶ読みした。
 
 そうして得たおとな顔負けの知識・情報をもとに、高校生になるころには早ばやと将来自分の歩むべき人生の方向を決めた。退屈と窮屈が一年じゅう満開の村から脱出し、広い世界で生き生きのびのびと生きる。
 
 そのための第一歩として選んだのが、東京の上智大学外国語学部フランス語科への進学だった。「ソルボンヌ、グランゼコール、カルチェ・ラタン、ヌーベルバーグ、なんかおしゃれではないか。ルソーとかデリダとか、なんか頭よさそうではないか。パリに行くしかない!」というわけである。
 
 もともと頭がよく、学校の成績も常にトップだったけれど、「上智のフランス語? いくら優等生といってもド田舎のじゃねぇ」とみんなに陰口をたたかれた。
 
 だが彼女はくじけない。一浪はしたが見事に周辺の期待を裏切って、東京のド真ん中・四ツ谷へ意気揚々と乗り込んだのである。
 
 ところが、「自由奔放な生活が待っていると思いきや、大間違い」だった。当時上智のフランス語学科は「イバラのフラ語」と呼ばれていて、毎年多数の学生が赤点をつけられ留年していた。しかもクラスの半分が帰国子女かフランス語既習者という環境。ムーミン谷逃亡子女には新たな地獄だった。
 
 そんな彼女にとって唯一の喜びは追っかけだった。高校時代に読んだ本を通して大ファンになったフランス憲法学の権威・樋口陽一教授の追っかけ。そしてその樋口教授の、フランスならぬビルマ(ミャンマー)の惨状(当時)についての言葉が、彼女を夢にも思わなかった人生へ導く。
 
 彼女は「それまでビルマ人というものに、会ったこともなければ、見たこともなかった。黒いのか、白いのか、どんな顔をしているのかすら想像もつかなかった」。そんなビルマ人の、軍事政権(当時)のため難民となった人々を支援する活動に彼女ははまりこんだのである。
 
 最初は日本国内に滞在するビルマ難民支援のNGOを手伝った。やがて運営委員になり、「マスコミの記者やフリージャーナリストの仕事に触れる」ようになる。
 
 その頃になると、上智のフランス語科に違和感を覚え始めた。「ワラジに慣れた脚に、無理やりハイヒールを履かせている感じ」。それに比べて「東南アジアは、(中略)肩肘張って無理をしなくていい」。
 彼女は「見つけた!」と思った。「ここが、自分の居場所だ」と。それが彼女のいう「雪崩(なだれ)の始まり」であり、ほどなく周辺から「パリ女子」ではなく「ビルマ女子」と呼ばれるようになる。
 
 そんな彼女にとって、平和な日本にいてコタツの上に寝そべって尻尾を振っている猫のような「活動」は生ぬるかった。現地の生(なま)の難民キャンプにじかに触れたかった。
 
 彼女は「行けるかぎり脚を運んで、ひとり歩いた。UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)やNGOの知り合いのツテを頼り、タイ~ビルマ国境沿いに点在するキャンプを訪ね、避難民のインタビューを聞き書きして」まわった。「次第により根源的な現場を求めて、日本人はほとんど足を踏み入れない『危険』地域も一人でがしがし歩き、国境もどんどん分け入り」難民たちからの聞き取りを続けた。
 
「たいていの難民キャンプは非常にアクセスの悪い場所に設置されているため、特に雨季は行くだけで大変だ。最寄りの街から片道十八時間、ジープで何度もぬかるんだ山道にはまり、そのたびに車を押しながら行き来した」。
 
 そして、タイ側へ流れこんでいるだけでも約十四万人といわれるボロとドロを着た難民たちにマイクを向け、軍事政権に村を焼き討ちされ、殺戮され続けた体験の証言を集めてまわった。
 
 ムーミン谷にいた頃、谷を脱出して行く先は、ファッションとグルメと芸術の国フランス以外にない、と固く決めていたのに、わずか数年後に歩いていたのが、この「まさか(真坂)」の現実。
 だが彼女の「まさかの坂」は、実はそれからが本番だった。「この世の地獄とは、見ると体感するとでは、大違いだった」。
 
「わたしはこれだけ見て歩いても、何ひとつわかっていなかったのだ。ただ頭でわかったつもりになっていただけだ。『難』はタイやビルマに確かにあったが、それは所詮、他人事であった」。まもなく彼女自身を「難」が襲う。
 
 自ら求めたとはいえ、それまで無理の上に無理を重ねた過酷な日々が誘因だろう、難民キャンプのあるタイにいた時、突然、世界でも珍しい難病にかかったのである。
 
 「全身が腫れ、どこもかしこも触れられただけで針を刺されたような激痛が走り、手足は潰瘍だらけ(皮膚はただれた)、すべての関節がブリキになったように強烈に痛み、軋み、動かない。目は乾き(朝起きると瞼がセメントみたいにガピガピに固まって開かない)」「口の中は炎症で真っ赤(ものを食べるのも苦痛)、髪の毛も抜け(頭の地肌が露出した)、熱が三十八度以上あって下がらず、齢二十五にして、すっかり『石化』した。身動きするだけで、イターイ! 寝返りすら、ウテナーイ!」「なんというか、もう、人間じゃない感じがした。/石。石です。」といった状態になったのである。
 
 這うようにして日本へ帰った。だがその祖国日本で、思いもかけず彼女自身が「難民」となったのである。「医療難民」。
 
 あらゆるツテと情報を集めて医療機関を訪ねたが、ただ別の医療機関を紹介されただけ。いつ終わるともしれないタライマワシ。これほど異状な身体と痛みを抱えているのに、どこも、誰も、何もしてくれない。ある超有名病院では三、四時間待たされて何を言われるかと期待したら、「『安静にしていればよくなります』チーン。撃沈」といったまさに辺境キャンプ状態の中、苦悶と絶望を抱えて這いずりまわる。
 
 いよいよこの病院が最後、ここで救われなければ自殺する、それしか自分が救われる道はない・・・と覚悟を決めて訪れたある医療機関で、この奇病に知見のあるハーバード大出身の医者と出会った。やっと病名がつく。
 「筋膜炎脂肪織炎(しきえん)症候群」。即入院。
 
 だが、病名は確定しても病状は改善しなかった。難病中の難病、奇病中の奇病、治療法は世界的にまだ手さぐり段階なのだ。
 
 ただ、国の「難病医療費助成制度」を利用できる資格を得た。申請すれば、この制度を利用できる。さもなくば、毎月何十万何百万掛かるかわからない医療費で殺される。
 
 しかしそのためには、国の医療行政と闘わなければならなかった。山のような申請書類と煩雑極まりない手続き。提出必要書類の項目数を見ただけで頭がくらくらした。体も自由に動かせない重症患者にも容赦なし。軍事政権顔負けの強権体質が日本の医療行政にはあった。対応できなければ即「難民」。
 
 ・・・とまあ、大野更紗さんが夢を抱いてムーミン谷を出たあとの数年をざっと追ってみると、こんな感じである。
 これ以上詳しく書いている紙幅はないが、彼女が典型的な「まさか(真坂)」を歩いていることはまちがいないだろう。
 
 長々と紹介したのは、彼女ほど極端ではなくても、われわれ人間が生きるということの実態とは、実はこういうものではないかと思うからだ。
 傾斜の緩急や道のりの長短はそれぞれでも、さまざまな「まさか(真坂)」の連続。これこそが、この世に生まれてきた人間が歩かされる人生の真の道であり坂ではないか、と思うからである。
 

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