箱の角に頭をぶつける

 ここのところちょっと重い話が続いたので、今回は軽~い話。前回みたいに痛くないよ。ま、豆腐の角に頭をぶつけるくらい。(→前回はこちら
 
 ある出来事に出くわすことで、あるいは、ちょっとした何かをすることを通して、それまで気がつかなかった自分の意外な一面を発見するってことってない?
 
 生まれて初めてキスをしたら、自分の鼻が意外に高いことに気づいた・・・なんて話じゃないよ。(ちなみにわしの鼻は高くも低くもなし)

 なんども書いているように、最近わしらは引っ越しをした。
 その引っ越しを通して、わしは自分がじつは意外なものが好きなのだ・・・ということを発見したの。
 で、その意外なものとは何かって?
 
 じつは箱。
 
 9月2日の当ブログに、亡くなった義母の遺品を整理していたら、次から次へとおびただしい数の空き箱が出てきた、なぜこんなものをたくさん取ってあるんだろう、場所ふさぎもいいとこなのに・・・とやや呆れぎみに書いてからまだ日は浅い。(→9月2日の記事はこちら
 
 ところが、いざ引っ越しのために自分たちの家の整理をはじめたら、出てきたのである、あっちやこっちから、空き箱が・・・。
 
 形も大きさもさまざまの、箱。
 さまざまといっても、多くは四角形だけどね。たまに正円か楕円形もある。
 ときおり五角形や星型なんてのも出てきたが、人間でも何人か集まると、ひとりやふたり変わったヤツがいるでしょ。
 
 問題は数なの。
 ちょっとやそっとの数ではないのよ。紙製、金属製、木製、大きいのやちっちゃいの、薄いの、細長いの、ぶっといの・・・もうありとあらゆるサイズや形の箱が、ボーフラが湧き出るように出てきたのだ。
 
 なんだこりゃ、なんでこんなものを後生大事に取っておいたんだ? とニガ笑いする以外になかった。なぜってつい先だって、同じように多数の箱を保存していた義母を笑ったばかりだったからだ。
 
 ニガ笑いととともに思い知ったよ、義母同様オレも箱が好きなんだなって。
 
 自分では意識していなかったが、目の前に現実を突きつけられたら、そうと認めざるを得ないじゃないの。
 
 だが、もういちど自分を振り返ってみると、たしかに箱は嫌いではないが、アイドルの追っかけみたいに好きで好きでたまらないってわけじゃない。
 
 ・・・というか、中身のチョコレートやクッキーを食べちゃったり、収めてあった食器類などを取り出したりして不要になった箱でも、ちょっとデザインがシャレていたり、造りがていねいだったりすると、つい捨てないで取っておく。利用する当てがゼンゼンなくてもね。
 
 じっさい、そうして保存しておいた箱をその後なにかに使ったことは、ゼロではないがほとんどない。単に仕舞いこんでおいただけだ。そのあとで別の何かも仕舞いこむから、物陰になって外から見えなくなる。ますます再利用する機会はなくなる。
 
 で、溜まる。
 
 他の生活不用品はそうではないのに、なぜ箱だけは、不要になってもゴミ収集場行きにならないのか? …って改めて考えてみた。
 
 おそらくそれはやはり、「あとで何かに使える」と思うからだろう。そもそも箱はそういう気配をもっている。ハナをかんだ後のティッシュペーパーに、そういう気配はない。
 
 昔は新聞だって読み終えても捨てなかった。その新聞でつくった紙袋に、魚屋や八百屋がサンマやトマトを入れてくれた。
 適当な大きさに切ってトイレで尻ふきにも使った。
 食べものが人間に入る「前と後」で、古新聞が再利用されて大活躍してたわけだ。
 
 かつては「もったいない」は美徳だった。
 現代でも完全に廃れてはいないが、その勢いはかつてほどではない。
 
 たとえば「断捨離」の元祖というか家元であり、その著書が累計数百万部に達するというやましたひでこさんは「もったいない」を否定する。
 
 その主張をわし風にいうとこうである。
 現代人の生活を物心両面で圧迫し、ひいては不幸にするもののひとつに、「捨てられないゴミの山」がある。
 で、それを片付ける極意は、「自分軸」と「時間軸」で対することだとやましたさんは主張する。
 
 なかなか捨てられないでいるモノを前にしたとき、「自分(=自分軸)」が 「今(=時間軸)」それを本当に必要としているかどうかをシビアに問う。
 
 「今は着られないが、ダイエットに挑戦して、あと5キロ痩せれば着られる」とか、「自分はもう着られないけど、あと5年もすれば娘が着られる」といった判断は、時間軸や自分軸からいって排除する。
 
 といってもなかなかそれができない。・・・というのが実状だ。
 その背後にあるのは、モノ自体はまだ十分に使えるのに、それを捨てるなんて「もったいない」と思うからだ。言い換えれば、「物を大切にしないのは罪である」という日本人の心に深くしみついている考え方。
 
 しかし、モノ不足だった時代はともあれ、モノが過剰になっている現代では、考えを変えるべきである。
 
 日本人のこの「もったいない精神」こそ、じつは「ゴミづくり」の張本人であり、「ゴミ屋敷」の主人である。
 そしてそれは目に見えないところで心身をむしばみ、人間を不幸にしている、というのである。
 
 まあそういう一面はたしかにあると思う。
 
 ではお前は、現実に大小の箱の山を前にして、自分軸・時間軸の両刀を振るったか。
 
 ・・・と問われると、振るえなかったと言わざるを得ない。
 汚れたものやセンスのないものは多少は捨てたが、大半は「いつか使えそう・・・」という思いを断ち切れずに、残してしまったのだ。
 
 アホか。・・・という声が聞こえてきそうだな。
 そういう、モノの本質が見えない優柔不断な人間は、「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ」って声も聞こえてくるな。
 
 その通りデスから、口をつぐみマス。

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当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。

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