登れない山
わしは若いころの一時期、古本漁りが趣味だった。
・・・なんて言うとちょっと格好よすぎだな。
奇書・珍書など稀覯本を探すのでも、初版本を狙うのでもなく(そんな金はなかった)、ただ単に古本屋の店先や店内をウロウチョロするのが好きだっただけだ。
いや実態はもうちょっとレベルが低い。
高めの本は、棚から引き出してパラパラ頁をめくり立ち読みはするが、また棚にもどす。帳場に持って行くのはたいてい、店先の平台にホコリといっしょに積んである廉価本。多くは文庫本だった。
ただ少しでも時間に空きができると、近くの古本屋へ足を向けたし、出張などで初めての土地へ出かけると、わざわざ時間をつくって古本屋を探した。
そんなことを飽きもせずくり返していたので、当然チリも積もれば・・・ということになる。ほとんどは未読の山。
しかもその山は大きくなるばかり。読む時間がないのに買ってくるのだから、トーゼンの話。
その後、なんどか引っ越しをしたが、その際この未読の山は処分しなかった。
少額とはいえ金を出して買ったのに、読まないまま捨てるのはもったいない・・・というのがひとつ。
しかしもっと大きな理由があった。やがてやってくる定年だ。
仕事から解放され、山のような自由時間が目の前にデンと置かれる。その時間の山を使って未読の山に登る。気の向くまま目につくまま古山草花に手をのばし、気ままに手折る。考えるだけでワクワクするではないか。
で、山は捨てずに後生大事にとっておいた。
さて、ついに夢の定年がやってきた。未読の山に登る環境はととのった。
が、登らなかった。
そのころ住んでいた所は、たまたま近くに大きな図書館があって、その図書館にはどんな本でもあったからである。
まさかこれはないだろう、と思いながら検索すると出てくるのだ。えッ、こんな本もあるの?! えッ、これも?! えッ、あれも?!
そのうち図書館にITシステムが完備されて、自宅のパソコンから予約すれば取り置いてくれるようになった。書架を探しまわる必要さえなくなったのである。
その上、多くの新聞には書籍欄があって、週1回、数ページにわたって読むに値するさまざまな本を紹介してくれる。新しいベストセラー本も古いロングセラーも。
食指のうごく本があれば、パソコンの予約キーを数回たたくだけ。
わが家に聳える未読の山が気にならないわけではなかったが、食指をそそられるのは何といってもやはり新鮮な旬の本である。ついそっちを優先する。本屋で買うより簡単に、無料で読めるのだ・・・。
昨年、80歳を過ぎてから引っ越しをしたときは、さすがに考えた。
未読の山をどうするか。
引っ越し先の家が狭くなること、余生が短くなったこと、エネルギーが衰えたこと・・・等を勘案して、とうとう処分する決心をした。文字どおり断腸の断捨離だった。
ただ、引っ越し先の図書館はごくごく小さいことが分かっていたので、小さな図書館にはなさそうなものは残した。山は何分の1かの小山になった。
引っ越しをして半年が経ち、気持ちも落ち着いてきたので、ようやく・・・まさにようやく、未読の小山へ登る気になった。
山裾の1冊を手に取った。
むかしの文庫本で表紙が色あせている。かすかに古本特有の匂いもする。
・・・だけではなかった。本文のページを開けて驚いた。字が小さいのだ。むかしの文庫本は、こんなに小さな字で印刷されていたのか!
・・・だけではない。インクの色がうすい。インクの色それ自体が褪せたのかもしれないし、紙が茶ばんだので相対的にうすく見えるのかもしれない。当方の目も古くなっている。とにかく読みづらい。
反射的に一時期テレビで連発されていたCMを思い出した。
「字が小さくて読めな~い!!」
大物俳優がそう叫んで、手にした書類をハデに放り投げるメガネ型ルーペのこのMが、わしは好きではなかった。いや美女の尻の下に敷かせてまで買い気をそそろうとするその暴力的押しつけがましさに、反発を感じていた。
「そんなルーペなど使う気になれな~い。永遠に尻に敷かれてろ!!」
かわりに手持ちの大型のルーペ(いわゆる虫眼鏡)を使ってみた。薬瓶の能書きやせいぜい新聞の小コラムを読むぐらいならいい。しかし、字列にそってルーペを動かしながら読むとなると、本1冊を読むには負担が大きすぎる。煩わしい。本に没頭できな~い。
いやな予感がする。
若いころ、ソートーな時間と労力をついやして作りあげた本の山は、結局、ほとんど読まれることなく捨てられることになるのではないか・・・という予感。
何というムダなことを・・・という思いとともに、ほんらいの目的も果たされないまま消えていく本たちに申し訳ない・・・という忸怩とした気持ちが残る。
しかし、考えてみれば本に限ったことではない。
およそわしの人生は、この本にしたのと大して違わないことをくり返しながら、気がついてみると終着駅近くに来てしまった感がつよい。
なんという情けない人生か・・・と思う。
やり直せるなら、もう少しましな人生を送りたい。
が、登らなかった。
そのころ住んでいた所は、たまたま近くに大きな図書館があって、その図書館にはどんな本でもあったからである。
まさかこれはないだろう、と思いながら検索すると出てくるのだ。えッ、こんな本もあるの?! えッ、これも?! えッ、あれも?!
そのうち図書館にITシステムが完備されて、自宅のパソコンから予約すれば取り置いてくれるようになった。書架を探しまわる必要さえなくなったのである。
その上、多くの新聞には書籍欄があって、週1回、数ページにわたって読むに値するさまざまな本を紹介してくれる。新しいベストセラー本も古いロングセラーも。
食指のうごく本があれば、パソコンの予約キーを数回たたくだけ。
わが家に聳える未読の山が気にならないわけではなかったが、食指をそそられるのは何といってもやはり新鮮な旬の本である。ついそっちを優先する。本屋で買うより簡単に、無料で読めるのだ・・・。
昨年、80歳を過ぎてから引っ越しをしたときは、さすがに考えた。
未読の山をどうするか。
引っ越し先の家が狭くなること、余生が短くなったこと、エネルギーが衰えたこと・・・等を勘案して、とうとう処分する決心をした。文字どおり断腸の断捨離だった。
ただ、引っ越し先の図書館はごくごく小さいことが分かっていたので、小さな図書館にはなさそうなものは残した。山は何分の1かの小山になった。
引っ越しをして半年が経ち、気持ちも落ち着いてきたので、ようやく・・・まさにようやく、未読の小山へ登る気になった。
山裾の1冊を手に取った。
むかしの文庫本で表紙が色あせている。かすかに古本特有の匂いもする。
・・・だけではなかった。本文のページを開けて驚いた。字が小さいのだ。むかしの文庫本は、こんなに小さな字で印刷されていたのか!
・・・だけではない。インクの色がうすい。インクの色それ自体が褪せたのかもしれないし、紙が茶ばんだので相対的にうすく見えるのかもしれない。当方の目も古くなっている。とにかく読みづらい。
反射的に一時期テレビで連発されていたCMを思い出した。
「字が小さくて読めな~い!!」
大物俳優がそう叫んで、手にした書類をハデに放り投げるメガネ型ルーペのこのMが、わしは好きではなかった。いや美女の尻の下に敷かせてまで買い気をそそろうとするその暴力的押しつけがましさに、反発を感じていた。
「そんなルーペなど使う気になれな~い。永遠に尻に敷かれてろ!!」
かわりに手持ちの大型のルーペ(いわゆる虫眼鏡)を使ってみた。薬瓶の能書きやせいぜい新聞の小コラムを読むぐらいならいい。しかし、字列にそってルーペを動かしながら読むとなると、本1冊を読むには負担が大きすぎる。煩わしい。本に没頭できな~い。
いやな予感がする。
若いころ、ソートーな時間と労力をついやして作りあげた本の山は、結局、ほとんど読まれることなく捨てられることになるのではないか・・・という予感。
何というムダなことを・・・という思いとともに、ほんらいの目的も果たされないまま消えていく本たちに申し訳ない・・・という忸怩とした気持ちが残る。
しかし、考えてみれば本に限ったことではない。
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なんという情けない人生か・・・と思う。
やり直せるなら、もう少しましな人生を送りたい。
(当記事で触れた「定年の夢」の話は、別記事『キッチン・バトル ‐年寄りの水あそび‐』にもっと詳しく、おもしろオカシク書いているので一読されたし。→ こちら)
お知らせ
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。
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