生まれて初めて死と向き合ったとき

初めての死

 何日か前の某新聞の読者投稿欄に、ある母親のこんな話が載った。
 夏も終わりに近づいたある日、幼稚園児のわが子(男の子)が走ってきて、
「死んでる・・・」
 と泣きじゃくったらしい。
 
 夏休みに、家族でよくセミ取りにきた近くの公園でのこと。
 どうしたの? と母親が訊くと、「セミが・・・、セミが・・・」と泣きながら何かを必死に訴えようとする。

 連れて行かれた所には、何匹ものセミが土の上に転がっていた。
 その光景にショックを受けたらしい子どもは、それでも泣きながらセミの亡き骸をけんめいに拾い集めた。家に持って帰って虫カゴに入れてやるのだという。
 
 たとえ馴染みのあるセミとはいえ、ふつうなら多数の虫の死骸を家に持ち帰るなんて許さなかっただろう。しかし生まれて初めて生きものの死と向き合って、心を揺らしているわが子の気持ちを大切にしたいと思い、帰り道もずっと泣き続ける小さな息子の肩に手を添えながら、落ち着いたら一緒にお墓を作ってあげようと思った・・・とその母親は投稿を結んでいた。
 
 その投稿を読んだときわしは思い出した。小学校へ上がった年に経験したある出来事をである。
 長く思い返すこともなかったが、それが小学校へ入った年だと憶えているというのは、かなり印象が強かったのだろう。
 
 そのころ、夕暮れになると、4歳年上の姉と、村はずれにある農家へヤギの乳をもらいに行っていた。
 
 その農家にはまだ小さな仔ヤギも含めて数匹のヤギがいた。
 
 毎日ではなく、1週間に2回ほどだったと思うが、わしら姉弟は一部が凹んだ古いヤカンをぶら下げて行き、帰りは搾りたての乳をその中へ半分ほど入れてもらって帰ってきた。寒いときはヤカンが温かかった。
 
 わしが牛の尻に止まるハエみたいに毎回姉にくっ付いて行ったのは、農家のおばさんが乳を搾ってくれているあいだ、仔ヤギの体に触ったり、乳の出が少なくなった老いたヤギに草をやったりして遊ぶのが好きだったからだ。
 
 ある日、いつものように農家に行くと、何かしらいつもとちょっと違う雰囲気があった。
 生臭い匂いが漂っていた。
 農機具小屋の壁に古い戸板が立てかけられていて、その戸板には、初めて見る異様なものが張られていた。
 だがそれが何であるかはその時は分からず、尋ねることもしなかった。

 それでいてそのとき、庭の柿の木のてっぺんにポツンとひとつだけ残っていた真っ赤な柿の実が、なぜか戸板とつながる光景として記憶の中にある。秋から冬に移ろうとする季節だったのだろうか。
 
 その日は帰るとき、いつもと違うことがもう一つあった。
 ヤギの乳だけでなく、小さな弁当箱くらいの大きさの包みを一つ渡された。新聞紙に包まれ麻紐で結ばれていたが、新聞紙は少し湿っていてグニャグニャとした感触がした。
 
 その日の夕食はスキ焼きだった。肉がちょっと臭くて硬かったが、食糧難時代だった当時としては飛びきりのご馳走だった。笠置シヅ子の唄う “盆と正月がいっしょに来たよな” という歌が後に流行したが、その日はまさにその歌詞どおりの食卓で、家族全員おお喜びで舌鼓を打った。
 
 そのとき食べたスキ焼きの肉が、かつて自分が草をやったり体を撫でたりした老ヤギだったことに気づいたのは、しばらく経ってからだ。
 
 その後、いつ行っても老ヤギの姿が見えない日が続いて、どうしたのだろうと思いながら誰かに尋ねたわけではなかった。だがある日とつぜん、いつか農機具小屋の壁に立てかけられていた戸板と結びついたのだった。
 
 あのとき戸板に張られていたモノ・・・それがいま姿を見せない老ヤギの皮だったと知ったときの驚き。

 しかもその体の一部を家族が大喜びして食べたことへのショック・・・。

 長いあいだ思い出すこともなかったが、今こうして記憶をたぐり寄せていくと、底深く埋められていた光景がしだいに姿を顕わしてきて、あのときの心の動揺を再体験する気がした。
 
 冒頭に記した、公園でセミの死と直面した幼稚園児の話を、意識の底に埋められていた自分の体験と重ねてみると、公園の幼稚園児がひとごとではなく感じられた。

 

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