うす汚れた初雪

生涯の秘密

 過去に自分がやったことで、恥ずかしくていたたまれないような行為を、何かの拍子にふいに思い出して「うう~ッ!」とうめき声をあげる。そんな嫌な記憶のひとつである童貞喪失時の体験を、前回まで数回にわたって告白した。(今回にも根幹部分で繋がるのでこちらを読んでおいてネ!)
 
 今回も同じく、思い出すといたたまれなくなる思い出だが、前回よりもさらに年齢がさかのぼる。
 また前回ほどの強度はないけれど、ほぼ70年間、親兄弟はじめ誰にも話さなかったもう一つのプチ秘密の告白である。

 何度も書いているが、わしの小学生時代は、終戦直後の混乱時代のさなかだった。そのせいもあり、今から思うと、相当いい加減な教育を受けた。・・・と思う。

 といって当時の先生たちを責めるつもりはない。終戦を境に指導内容は180度ひっくり返るし、貧弱な教育環境は教育内容がひっくり返っても同じだし、何より先生たちは、自分や家族が生きる上に必要な食糧を手に入れるのに必死で、それがすべてに優先する時代だったからだ。

 そんな時代の、小学校四年も終わりに近いころだった。
 わしはある日の放課後、教室に居残るように担任から言われた。
 そして帰るまでに、コンクールに出す俳句を十句作れ、と命じられた。

 当時は、学校対抗のコンクールが盛んに行われていた時代だ。
 作文や絵画、書道や工作、算盤・弁論など何でも学校単位で競わせて、優秀作品とそれを出した優秀校を顕彰したのである。
 
 まあ一種の教育振興策だったのだろうが、実をいうとわしは、この手のコンクールでは常に学校から指名される生徒だった。

 あわてて付け加えるが、べつに自慢したいわけではない。実はその逆だ。わしがこれらの作文・絵画等に、特別の才能があったわけではなかったからだ。

 早い話、学校を代表して制作した作品やパフォーマンスが、今回お話しする唯一の例外を除いて(つまりそこには特別の秘密があったのだ)、一度も入賞したことはない。
 むしろ遊びたいさかりなのに、いつもコンクールのために時間と労力を奪われたわけで、いうならこうした安直な教育振興策の被害者というか、犠牲者だった。
 
 ではなぜ、そんなわしがコンクールの代表に指名されたのか。
 
 考えるだけでもアホらしい。・・・というか腹が立つ。
 ひと言でいえば、教師たちの怠慢と無責任の結果である。(先にも述べたような終戦直後の特殊事情はあったけれど・・・)

 具体的にいうと、わしの両親が共に教師だったからである。
 学校は、それぞれのコンクールに最もふさわしい資質や才能を持った子供を時間をかけて見きわめるという努力をせずに、両親が教師の生徒にやらせておけば、学校で指導しなくても、いざとなれば親が手助けしてなんとかなるだろう・・・ぐらいに考えてわしを選んでいたのである。

 これから述べる県主催の「俳句コンクール(地方新聞社後援)」でも、まさにこの手抜き安直手法が使われたのだった。

 さらに悪いことに、このときは担当の教師が作品提出日を忘れていて、締切り直前になってから気づき、慌てたのだ。
 その結果、放課後(つまり “七人のこびと” が出動できない時間)という状況にもかかわらず、習慣的にわしを指名し、コンクール用の俳句10句を数時間で作って提出しろ、などというムチャ振りをしたのである。

 時は酷寒の二月で、だるまストーブの火が落とされた教室はしんしんと冷えていた。
 その冷凍室のような教室にひとり残されて、蚤のフンほどの興味もない俳句を作れなどと言われても、わしは困惑するばかりだった。
 
 しかし作らないと帰宅できない。
 鉛筆を握るかじかんだ手に息を吹きかけながら、必死に・・・というよりヤケッパチで、とにかく無理やり五七五の言葉並べ、17個の文字の集まりをつくったのである。
 そして先生に手渡すと、脱兎のごとく校門を走り出て、1秒後には忘れ去った。
 
    (すでに長くなったので続きは次回で。次回はこちらから)
 

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