宝塚トップ出身の女優とのツーショット(2)
先日、たまたま、ほとんど忘れていた66年前の若き日の写真が出てきた。
宝塚娘役トップ出身の映画スターとのツーショット写真である。
映画のタイトル風にいうなら “美女と青麦”。
当時は映画が娯楽の王様時代で、映画スターとツーショット写真を撮るなど、雲の上の雷神と肩をくんでカメラの収まるようなもの。めったに出来ることではなかった。
その写真が撮られた経緯を、今回から数回にわたってやや詳しく書こうと思ってオリマス。(前回はこちらから)
10代の後半、わしが通学した高校は山陰地方にあった。
この高校から進学する者は、土地柄ほとんどが京都・大阪・神戸を中心とする関西方面の大学をめざした。
だが、当時からへそ曲がりだったわしは、親の肩にかかる重荷も考えずに東京へ出たいと強く主張して、東京の大学を受験することになった。
受験生はふつうホテルとか旅館に泊まって受験するのだろうが、そんな考えはビンボーなわが家ではハナからなかった。同じ村から出て東京に居住している同郷人にむりやり頼みこんで、受験中、泊めてもらう手はずを親がととのえた。
当時、山陰から東京へ直行する急行列車が、1日に1本だけあった。
列車名を「出雲」といい、昼すぎに山陰で乗車すると翌朝の七時ごろに東京に着いた。
寝台車は繋がれていなかったので、座席に座ったまま一晩過ごさねばならなかった。ツキに見放されたら、ひと晩立ちどおし、あるいは床に新聞紙などをしいて、尻の悲鳴を聞きながら一夜を明かすという苦行を強いられることもあった。
私が受験で上京したときは運よく座れたものの、生まれて初めてひとりで大都会に出る不安で、一睡もできなかった。
それより一年半ほど前、修学旅行で東京に来たとき、東京駅構内で写真を撮っている間に集団からはぐれて、雑踏の中に取り残されたことがあった。
原始の密林の中にひとり放り出されたように青くなり、パニクって走りまわってかろうじて一行(いっこう)に辿りついたときは、脚をすべらせて落ちた大きな滝壺から命からがら這い上がったような気がしたものだ。
そんな経験もあったので、この受験のときの上京は、あらためてひとりで密林の中へ入っていく気分だった。かつて日本のチベットと言われた僻村に生まれ育った少年には、「密林」は誇張ではなかった。
東京駅からRさん宅(わしを泊めて下さった家)までの行き方を描いた地図は持っていたが、地名に馴染みがないので白地図を持っているのと同じだった。
唯一の頼みは標識や看板の日本字が読めて、日本語が話せることだった。
だが、対人恐怖症ぎみだった当時のわしが路上で東京人に道を訊くのは、ジャングルでゴリラの肩をたたくようなものだった。
だが、いちばん重いプレッシャーだったのは、実は、親たちは知り合いでもわし自身は会ったこともない他人の家に、ひとりで何日間か泊めてもらうという状況だった。
未知のR家の人びとにどのように接したらいいのか。
どんな顔をして、何の話をし、どのように振るまって数日間の寝泊まりをしのげばいいのか・・・ということが胸の底に重くよどんでいた。試験の成否よりこっちのプレッシャーの方が大きかったかもしれない。
列車「出雲」が東京駅に近づき、しらじらと明けてきた車窓に大都会のビル群が流れはじめたときは、このまま列車が暴走して青森まで行けばいいのに・・・などと思ったのを憶えている。(続きは次回)
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。