長生きして申し訳ない
わしら夫婦は、朝起きてから夜寝るまで丸ごと年金生活者である。
言い換えれば生きていられるのはひたすら年金のおかげだ。
わしらの場合、偶数月の15日に2ヵ月分の年金が振り込まれるのだが、それを確認しながらときおり、「長生きしちゃって申し訳ないですねぇ」と心の中で小さくつぶやくことがある。国に対して、というか世間サマに対して・・・。
働いていた若いころに保険料を毎月支払ったのだから、年金受給は当然の権利だという思いもないことはないのだけれど、今やなんの役にも立たない存在になっちゃっているのに、国に散財させちゃって・・・などと思う気もどこかでかすかに動いちゃうんだよねぇ。気が弱いっていうか、ピリッとしないというか・・・。
しかしまあ、わしがそんなふうな気持ちになるのには、理由がないわけではない。
それは長く生きても、生きていることの幸せに少しも繋がっていない高齢者たちが、周辺にゴロゴロいるからだ。
現在は人間の寿命は間違いなくかつてより延びた。それは厳然たる事実だ。
だがその事実の変化に対して、人間の文化(社会制度や風俗習慣など)はほとんど対応していない。
そこに生じるズレが、先に述べたような、長く生きることがその人の幸せに結びつかない・・・どころかむしろ不幸作り出している。
こんな辛い思いまでして生きていたくない、1日も早くお迎えにきて欲しい・・・と思いながら生きている老人たちがいかに多いことか。
にもかかわらず未だに、長寿といえば反射的に “おめでたい” という言葉につなげる人間世界のこのオメデタサ。わしなどはハラが立つ。
かつては人間は短命だった。だから長寿はおめでたかった。
だが “人生100年時代” となっても同じことを言っているのでは、人間はご自慢の頭をどこに使っているのか。
そういう愚かしくオメデタイ事柄の具体例のひとつが安楽死問題である。・・・とわしは思う。
現在世界には約200の国があるが、積極的安楽死を容認している国は10ヵ国ほどで、残りの98.5パーセントは認めていない。
多くは手に触れちゃいけなもののごとくタブー視するか、犯罪扱いである。
生きものは生まれて生きて死ぬ。
その間を人生とよび、さまざまな過程を経て生を終える。
死は、誕生や成人や繁殖や老化と同じで、単なる人生の一過程、一地点にすぎない。
死だけを特別扱いしなければならない必然性はない。
生まれるときは、当人の意思に関わりなく問答無用的に産み出されるのだから、せめて死ぬときくらいは当人の選択に任せてよ・・・という切実な人間の思いをなぜ許容しないのか。
誕生と違ってそうしようとすれば出来ることなのに・・・。
もちろん安楽死問題は数多くの懸念材料を内包している。しかし、いかなる選択にも完璧はない。
結局、なにがいちばん重要かだ。
最優先事項を決めれば、それに付随してくるさまざまなマイナス要素は、一つひとつていねいに対処し、対策を工夫していけばいいのだ。
で、この問題では何がいちばん重要か。
安楽死というと、まるで伏魔殿と向かい合うような対応を世間はするが、核心を見極めればむしろ単純だ。
その核心とは、生の終わり方を、当人(個々人)の自由な意思に委ねることである。
それを最優先させて対応を進めれば、どれだけ多くの老人が救われることか。
しんどい人生だったけれど、結局、最後はまあ悪くなかったナ、と思って人生を終えられる。
・・・とわしは夢想するんだけどねぇ。
当ブログは週2回の更新(月曜と金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。