咆え声 唸り声
半年くらい前からだろうか。ときおり変な音が聞こえるようになった。
獣の唸り声にも、咆え声にも聞こえるような低い音だ。
最初は、どっかの家に飼われている躾けの悪い犬かと思った。が、どうも犬とは違う。
人間の声にしてはちょっと異常だが、聞く回数が重なるにつれ、どことなく人間の声のような気もしてきた。
しかし人間がこんな声を出すだろうか。
最近は変な動物をペットにする人間もいるから、近所の誰かが、おかしな動物を飼いはじめたのかもしれない。人間のなかには変な趣味を持つヤツがいるからねぇ。
だがどうもその声には、何か、怒りとか恨みとかいったような人間くさい感情がこもっているような気がする。
昼の間はいい。音量が低いので、他の音にまぎれてそれほど気にならない。
しかしごくたまだが夜に聞こえる時がある。それも深夜。たまたま目が覚めたときとか、トイレに起きたときなどに聞こえる。
そんなときはなんとも言えない暗い気持ちになる。深夜という時間帯がそうさせるのかもしれないが、さっき述べた恨みとか怒りのようなものが、深夜だとより際立ってひびくように思える。
ところが最近になって、その音の出どころが判明した。
マンションの管理費を払いに行ったカミさんが、当番の世話人から聞いてきた。
やはり人間だった。同じマンションに住むある家のご主人が出している声だった。
階はわが家より1階下だが、2軒ほど横隣り。ちょくせつ話をしたことはないが、会えば挨拶くらいはする。
年はわしらより6,7歳ほど若そうだ。が、やはり老夫婦だけの単独世帯。
その老夫婦のご主人のほうが、半年ほど前にうっかり何かに躓いてこけた。
運悪く打ち所が悪かったらしい。脳内出血でも起こしたとかで、体の大部分が不随になった。
だが意識はしっかりしているらしい。不幸中の幸いと言えないこともないが、それが却って彼の不幸感は強めているのかもしれない。
倒れる前は、いまなお週に1度ゴルフに行くのが楽しみで、毎週欠かしたことはないと聞いたことがあったように思う。
その言葉を裏付けるようにがっしりした大柄な体格で、挙措動作も若いひとと変わらないくらいキビキビしていた。
それが今はほどんどベッドの上か車椅子の上に縛りつけられているのだろう。クラブを振るには少々窮屈すぎる。
日がな一日そういう状態でただ息をしているというのは、わしも今度の脳梗塞でそのごく短いのを味わったので、その辛さは痛いほど想像できる。
性格もあるだろうが、そういう状態が長く続けば、それも回復する見込みが難しいとなれば、ときには見境もなく叫びたくもなるだろう。吼えたくもなろう。
彼の気持ちを想像すると、ときにはこっちまで吼えたい気持ちになる。
そばで介護する奥さんもさぞ辛いだろう。
老いるということは残酷だ。
しかし生きものはすべて老いることから逃がれられない。
建築家の安藤忠雄(81歳)氏は、五臓六腑のうち五臓をガンで失った。
それでも彼は「無ければ無いように生きる」と称して、めげないで生きているらしい。
そういう状態で生きるには、三つの心構えが必要だと彼は言う。
「諦め」と「覚悟」と「希望」。
無くなったものに未練を残してクヨクヨして何も生まない。
失ったものはサッパリ諦めて、有るものを生かして生きていく覚悟を持つ。
そこに希望も生まれる。いや、そこに自分から希望を作っていく。
わしはいい加減に漫然と生きている人間だけど、この安藤サンの生き方にいたく共感する。
老人が生きるにはこれしかないと思う。これが年寄りの最高の生き方だと思う。
それがちゃんとできるかできないかは、また別デスけどネ。
当ブログは週1回の更新(金曜)を原則にしております。いつなんどきすってんコロリンと転んで、あの世へ引っ越しすることになるかもわかりませんけど、ま、それまではね。
何と言うか、どのようにコメントして良いのか分かりません。ただ一つ。転倒には十分気を付けて欲しいです。外より家の中での転倒が多いそうです。何をするにも、ゆっくりすればよいんですよね。そうすれば転倒は防ぐ事ができるのですよね。
われわれの年齢のものは、転倒が最大の敵ですねよ。
転倒そのものより、その後に続く入院、寝たきり・・・などが
怖いんでよよね。
かつて一日に何度も転んで、ひざ小僧や肘っ先に擦り傷を
いくつも作っても平気で走り回っていた頃が懐かしいです。
・・・なんて言ってもしょうがないですけど。